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関張馬黄趙伝 第六
趙雲
趙雲の生涯
字は子竜。
元公孫[王贊]の配下であったが、彼が先主を派遣して田楷を助けて袁紹を防がせたとき、 趙雲は随行する事となり、先主の主騎になった。
先主が曹公によって張阪まで追撃され、妻子を棄てて南方へ逃走したとき、趙雲は身に幼子を抱いた。 すなわち後主(劉禅)である。 甘夫人を保護した。すなわち後主の母である。 (おかげで)どちらも危難を免れる事が出来た。 牙門将軍に昇進した。
先主が蜀に入国すると、趙雲は荊州に留まった。 先主は葭萌(かぼう)から引き返して劉璋を攻撃し、諸葛亮を召し寄せた。 諸葛亮は趙雲や張飛らを率いて共に長江をさかのぼって西上し、諸郡を平定した。 江州に到着すると、趙雲に別の川を通って江陽に上り、諸葛亮と成都でおちあう事を命じた。 成都が平定された後、趙雲を翊軍将軍に任じた。
223年、中護軍・征南将軍になり、永昌亭侯にに封じられた。昇進して鎮東将軍になった。
227年諸葛亮に従って漢中に駐留した。 翌年、諸葛亮は出兵し、斜谷街道を通ると宣言した。 曹真は大軍を派遣してこれにあたらせた。 諸葛亮は趙雲とトウ芝に命じて曹真の相手をさせておき、自身はキ山を攻撃した。
趙雲とトウ芝の軍が弱小なのに対して敵は強力だったので、箕国で敗北したが、 しかし軍兵を取りまとめて守りを固め、大敗には至らなかった。 軍が撤退すると、鎮東将軍に位を下げられた。
229年逝去し、順平侯の諡号を追贈された。
それより前、先主の時代には、ただ法正だけが諡号を贈られた。 後主の時代になって、諸葛亮は世をおおう功績・徳義を立て、 蒋[王宛]と費[ネ'韋]は国家の重責を荷った為に、また諡号を受けた。
陳祗は寵愛されて、特に格別のご沙汰を受け、夏侯覇は遠方より国家に帰順し、 その為にやはりし諡号をおくられた。 この時になって関羽・張飛・馬超・[广龍]統・黄忠および趙雲がはじめて諡号を追贈された。 当時の世論は名誉としてもてはやした。
私的感想
演義ではいつでも大活躍の趙雲ですが、正史の伝としての記述はほぼ上に記載したのみです。 しかし、「趙雲別伝」は伝より多く書かれており、趙範の兄嫁との話や、 街亭で敗北した後、負けたのに恩賞があるのはおかしい。 兵士に与えてください。と言った話があります。
また、空城の計は演義などで諸葛亮が有名でありますが、 趙雲も諸葛亮以前にこの計を用い、曹操の軍勢を破っています。