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関張馬黄趙伝 第六

関羽

関羽 張飛 馬超 黄忠 趙雲

現代では神様と崇められる関羽の生涯

字は雲長。

元の字は長生と言う。本籍からタク郡に出奔した。 先主(劉備)が故郷で徒党を集めたとき、関羽は張飛とともに、彼の護衛官となった。 先主は平原の相となると、関羽と張飛を別部司馬に任じ、それぞれ部隊を指揮させた。 先主は二人と同じ寝台に休み、兄弟のような恩愛をかけた。

しかし大勢の集まっている席では、一日中側に立って守護し、先主に付き従って奔走し苦難をいとわなかった。

先主は徐州刺史の車冑を襲撃して殺害すると、 関羽に下ヒを守備させ、太守の事務を代行させ、自分は小沛に帰った。

200年、曹公が東方征伐を行い、先主は袁紹の元へ逃走した。 曹公は関羽を捕虜にして帰り、偏将軍に任命して、大変手厚く礼遇した。 袁紹は大将の顔良を派遣して劉延を攻撃させたが、曹公は張遼と関羽を先鋒にして、これを襲った。 関羽は、顔良の〔車につける大将の〕旗印と車蓋を望見すると、馬に鞭打って、 〔馳せつけ〕大群の真っ只中で顔良を刺し、その首を切り取って帰ってきた。 袁紹の諸将で相手になれる者はおらず、かくて白馬の包囲は解かれたのである。

曹公は即刻上表して、関羽を漢寿亭侯に封じた。 これより先、曹公は関羽の立派な人柄を評価したが、 彼の心には長く留まる気持ちが無いと推察して、張遼に、 「君、試しに個人的に彼に質問してみてくれ。」と言った。

それを受けて張遼が関羽にたずねてみると、関羽は歎息して、 「曹公が私を手厚く厚遇してくださるのはよく知っていますが、 しかし、私は劉将軍から厚い恩誼を受けており、一緒に死のうと誓い合った仲です。 あの方を裏切る事は出来ません。私は絶対に留まりませんが、 私は必ず手柄を立てて、 曹公に恩返ししてから去るつもりです。」と言った。

張遼がこの事を曹公に報告すると、曹公はその義心に感心した。

関羽が顔良を殺害するに及んで、曹公は彼が必ず去るだろうと思い、思い恩賞を賜った。 関羽はことごとくその贈り物に封印をし、手紙を捧げて決別を告げ、袁紹の軍にいる先主の元へ奔った。 側近の家来が彼を追跡しようとすると、曹公は、 「彼は彼なりに、主君の為にしているのだ。 追跡してはならない。」と言った。

〔関羽は〕先主に従って劉表の許に身を寄せた。 劉表が死去すると、曹公が荊州を平定しようとした。 先主は樊から南下して長江を渡る計画を立て、 関羽には別に数百艘の船を率いさせ、江陵で落ち合うことを命じた。 曹公が追撃して当陽の長阪にやってくると、先主は脇道を通って、そこで丁度関羽の船と出会って、 一緒に夏口に到達した。孫権は軍兵を派遣して先主を救援し、曹公を防いだので、曹公は引き撤退した。

先主は江南の諸郡を手に入れると、大功を立てたものに官爵を授け、 関羽は襄陽太守・盪寇将軍に任命して長江の北に駐屯させた。 先主が西方益州を平定すると、関羽を荊州の軍事総督に任じた。

関羽は、馬超が来降したことを聞き知り、元々馴染みではなかったので、 諸葛亮に手紙を出して、 馬超の人物・才能は誰と匹敵するかと尋ねた。 諸葛亮は関羽が負けず嫌いなのを知っていた事から、 これに答えて、 「孟起(馬超)は文武の才を兼ね備え、武勇は並外れ、一代の傑物であり、 〔漢の〕黥布(英布とも言う)や彭越のともがらである。益徳(張飛)と先を争う人物というべきだが、 やはり髯殿の比類なき傑出ぶりには及ばない。」と言ってやった。 関羽は頬ひげが美々しかったので、諸葛亮は彼を髯どのと呼んだのである。 関羽は手紙を見て大喜びして、来客に見せびらかした。

関羽は以前流れ矢に当って、左肘を貫通された事があった。 後になって傷が癒っても、曇りの日や雨の日にはいつも骨が疼き痛んだ。 医者が、「矢尻に毒が塗ってあって、毒が骨に染み込んでいますから、 肘を切り裂いて傷口を開け、骨を削って毒を取り去らねばなりません。 そうすればこの痛みはなくなるでしょう。」と言った。 関羽はすぐに肘を伸ばして医者に切開させた。 丁度その時、関羽は諸将を招待して宴会をしている最中であった。 肘の血は流れ出して、大きな皿いっぱいになったが、関羽は焼肉を切り分け酒を引き寄せて、 泰然として談笑していた。

219年、先主は漢中王になると関羽を前将軍に任命し、節と鉞(専行権を示す)を貸し与えた。 この年、関羽は軍勢を率いて、樊にいる曹仁を攻撃した。 曹公は于禁を救援に差し向けた。秋、大変な長雨が降って、漢水が氾濫し、 于禁の指揮する七軍全てが水没した。于禁は関羽に降伏し、関羽はまた将軍の[广龍]悳(徳)を斬った。

曹公が許の都を移してその鋭鋒を避けようかと相談すると、司馬懿と蒋済は、 関羽が野望を遂げる事を孫権は望まないだろうから、使者をやって、 その背後を突かせるよう孫権に勧め、 長江以南の地を分割して孫権の領有を認めるがよい、 そうすれば、樊の包囲はおのずと解けるだろうと主張した。 曹公はそれに従った。

これより先、孫権は使者を出して息子のために関羽の娘を欲しいと申し込んだが、 関羽はその使者を怒鳴りつけて侮辱を与え、婚姻を許さなかったので、孫権は大いに立腹していた。 また、南郡太守の糜芳が江陵に、将軍の傅士仁が公安に駐屯していたが、 どちらもかねてから関羽が自分を軽んじていると嫌っていた。

関羽が出陣すると、糜芳と傅士仁は軍資を供給するだけで、全力をあげて援助する事はなかった。 関羽は、「帰還したら、こいつらを始末しなければならない。」といったので、 糜芳と傅士仁は落ち着かなかった。 この時孫権が内々に糜芳と傅士仁に誘いをかけ、彼らが人をやって孫権を迎えさせたところに、 曹公が徐晃を曹仁の救援に差し向けた。※

関羽は勝利を得る事が出来ず、軍を引いて撤退した。 孫権はすでに江陵を占領しており、関羽の部下やその妻子達をことごとく捕虜にしたので関羽の軍は四散した。 孫権は、将軍をつかわして関羽を迎え撃ち、関羽と子の関平を、斬り殺した。

裴松之の注

※『蜀記』にいう。

関羽と徐晃は昔からたがいに敬愛しあっていたので、はるか距離を隔てて語り合ったが、 しかし只世間話だけで、軍事の話には触れなかった。

しばらくして、徐晃は馬から下りると、命令を発し、 「関雲長の首をとったものには、賞金千斤をやる。」と言った。 関羽はビックリして怖れ、徐晃に「大兄、これは何のことだ。」と言うと、 徐晃は、「これは、ただ国家の事なのだ。」と答えた。

私的感想

蜀書列伝第一号です。

顔良を斬り殺しはしましたが、文醜までは斬っていないです。

また、関平は正史では関羽と一緒に斬られた記述しかなく、養子などは書いてありません。 関興も幼い頃から優秀で諸葛亮も期待したとあり、しかし若死にしたとあるだけです。 関索にいたっては演義の創作です。 当然僕も初めは演義から入りましたので正史を知ったときはビックリでしたね。

現代では関羽は神様扱いされて大変人気がありますが正史では非常に記述も少なく(蜀は大体そうですが・・・)、 関羽は陳寿の評も厳しいものがあります。 正史の注を引いた裴松之も荀ケや蒋[王宛]などのように反論も無く、同調しているのでしょうか。 さらには諸葛亮との手紙のやりとりで上手く丸め込まれてしまっていますね。

余談ですが蜀書の話を少し。 正史・三國志を書いた陳寿は元々蜀出身なので劉備の事を先主、 劉禅の事を後主と記しています。曹操の事を曹公としたりとやはり心は蜀にあったのでしょうか。 しかし、蜀出身の割りに蜀書はあまりに記述が少ないし、人物も少ないです。 よほどの人材難であった事はこんなところからも見れる気がします。