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陳寿評・蜀
劉二牧伝 第一
劉焉 劉璋
評にいう。
昔(前漢初め)、魏豹は許負の言葉を聞き入れて、薄姫を妻とし、
劉キン(前漢末)は図式の文を見て名と字を改めたが、結局その身は(危難から)免れられず、
二人の君主(前漢の孝文帝と後漢の光武帝)に幸運が集まったのである。
これは神明は空しく求めてはならず、天命はみだりに願ってはならぬということである。
(なぜなら)結果は必然のものとしてあらわれるのだから。
ところが劉焉は董扶の言葉を聞くと益州の地に心を向け、
占い師の言葉を聞くと呉氏との婚姻を求め(二主妃子伝参照)、
急いで(天子の)御車・冠服を造り、神器(天下)を盗もうとはかった。
その判断力の無さには、はなはだしいものがある。
劉璋は英雄としての能力も無いのに、領土を占めて世の中を混乱させた。
柄にも無い地位につき、領地を狙われる羽目に陥ったのは、自然の道理である。
彼が土地や官位を奪い取られたのは不幸とは言えないであろう。
先主伝 第二
劉備
評にいう。
先主は度量が広くて意志が強く心が大きくて親切であって、人物を見分け士人を待遇した。
思うに漢の高祖の面影があり、英雄の器であった。
その国をまかせて遺児を諸葛亮に託し、心に何の疑惑も持たなかったこととなると、
誠に君臣の私心無きあり方として最高のものであり、古今を通じての盛時である。
権謀と才略にかけては、魏の武帝に及ばず、これがため国土もまた狭かった。
しかしながら敗れても、屈服せず、最後まで臣下とならなかったのは、
そもそも彼の(武帝)の度量からいって、絶対に自分を受け入れないと推し測ったからで、
単に利を競うためというのではなく、同時に害悪を回避するためでもあったのである。
後主伝 第三
劉禅
評にいう。後主は賢明な宰相に政治を任せているときは、道理に従う君主であったが、
宦官に惑わされてからは暗愚な君主であった。
伝に、「白糸はどうにでも変わるものであり、ただ染められるままになる」とあるのは、なるほどもっともである。
礼では、国君が国家を継承した際には、年を超えてから年号をあらためるはずなのに章武三年に建興と改元しており、
このことを過去のたてまえと照合してみると、道理に合わない。
また、国に史官を置かず、記録係の官もおいてないため、事実に遺漏が多く、災害の記録も無い。
諸葛亮は政治に熟達していたけれども、およそこうした種類の事に関して、なお周到でないところがあった。
しかしながら、〔諸葛亮の生存中は〕十二年を経過しながら年号を変えず、
しばしば出兵しつつも、恩赦をみだりに行っていないのは、やはり卓越した事ではあるまいか。
諸葛亮が死没(建興十二年)してからのちは、かかる体制もだんだん欠けてきており、その優劣は歴然としている。
二主妃子伝 第四
甘皇后 穆皇后 敬哀皇后 張皇后 劉永 劉理 劉セン
評にいう。
『易』では、夫婦があってそののちに父子があるといっており、
そもそも〔夫婦は〕人倫(人間関係)の基礎であり、恩愛の道が興隆する根本であって、
これ以上尊いものは無いのである。それゆえにこそ記録に留めて、一国のあり方を究明するものである。
諸葛亮伝 第五
諸葛亮
評にいう。
諸葛亮は丞相になると、民衆を慰撫し、踏むべき道を示し、
官職を少なくし、時代にあった政策に従い、真心を開いて、公正な政治を行った。
忠義をつくし、時代に利益を与えたものは、仇であっても必ず恩賞を与え、
法律を犯し、職務怠慢な者は、身内であっても、必ず罰した。
罪に服して、反省の情を見せたものは、重罪人であっても必ず許してやり、
言い抜けをしてごまかす者は、軽い罪でも必ず死刑にした。
善行は小さなことでも必ず賞し、悪行は些細な事でも必ず罰した。
あらゆる事柄に精通し、物事はその根源をただし、建前と事実が一致するかどうかを調べ、
嘘偽りは、歯牙にもかけなかった。かくて、領土内の人々は、みな彼を尊敬し愛した。
刑罰・政治は厳格であったのに怨む者がいなかったのは、彼の心配りが公平で、賞罰が明確であったからである。
政治の何たるかを熟知している良才であり、
〔春秋時代の〕管仲・〔漢の〕蕭何といった名相の仲間といってよいであろう。
しかし、毎年軍勢を動かしながら、よく成功をおさめる事が出来なかったのは、
思うに、臨機応変の軍略は、彼の得手でなかったからであろうか。
関張馬黄趙伝 第六
関羽 張飛 馬超 黄忠 趙雲
評にいう。関羽・張飛はいずれも一万人の数を相手に出来る男と賞讃され、この時代の猛の臣であった。
関羽は曹公に手柄で報い、張飛は義気を示して厳顔を釈放し、ともに国土の風格があった。
しかし、関羽は剛直で自信を持ちすぎ、張飛は乱暴で情を持たず、
その欠点のため身の破滅を招いたのは道理からいって当然である。
馬超は武力と猛勇をたのんで、その一族を滅亡に導いたのは、残念なことである。
しかしよく窮地から抜け出て安泰を招来したのは、まだましではなかろうか。
黄忠・趙雲が果敢・勇猛によって、ともに武臣となったのは、
灌嬰・滕公(夏侯嬰。いずれも漢の高祖の武臣)のともがらであろうか。
許糜孫簡伊秦伝 第八
許靖 糜竺 孫乾 簡雍 伊籍 秦[宀必]
評にいう。
許靖は早くから名声があり、篤実さで評判を受けていた上に、優れた人物を見出す事に心を向けていた。
行状や行動は、すべてが妥当であったとはいえないが、
蒋済は「全体として国政を荷う人材である」と主張している。
糜竺・孫乾・簡雍・伊籍らは、皆のびのびした態度で見事な議論を行い、その事態において礼遇された。
秦[宀必]は最初、脱世俗の高邁さを慕いながら、愚人の振りをして世を避けるという、裏付けの行為がなかった。
しかし他国の使者に対する受け答えは余裕があり、文章は壮麗であった。
一代の才士といってよいであろう。
劉彭廖李劉魏楊伝 第十
劉封 彭ヨウ 廖立 李厳 劉エン 楊儀 魏延
評にいう。
劉封は嫌疑をかけられる立場にありながら、身を守る配慮だけをし対策を立てられなかった。
彭ヨウと廖立は才能によって抜擢されて昇進し、李厳は才幹によって栄達し、
魏延は勇猛を以って任じられ、楊儀は実務の手腕によって出世し、
劉エンは古くから仕えたものであり、ともに皆尊重された。
その行為を観察し、その品行をたどってみると、禍いを招来し罪を得たのは、すべて身から出た錆であった。
霍王向張楊費伝 第十一
霍峻 王連 向朗 張裔 楊洪 費詩
評にいう。
霍峻は孤城を守って動揺する事無く、王連は節義を貫いて心変わりせず、
向朗は学を好んで倦むことなく、張裔は明敏にして場面に応じて見事に対応し、
楊洪は忠実公正な心を持ち、費詩は率直な発言をした。
いずれも記録に価いする人物である。
先主の広い度量、
諸葛亮の公正な態度がありながらも、費詩は直言を吐いたため、出世の道を閉ざされたのである。
まして凡庸な君主を相手にした場合どうであろうか。
杜周杜許孟来尹李[言焦]郤伝 第十二
杜微 周羣 杜瓊 許慈 孟光 来敏 尹黙 李セン [言焦]周 郤正
評にいう。
杜微は品行を整え、隠棲して静かな暮らしを楽しみ、時代の拘束を受けなかった。
白夷・四皓(いずれも古の隠棲者)の生き方に近いと言えようか。
周羣は天文を観て占って正しい判断を下し、杜瓊は沈黙を守って慎み深く、いずれも純粋な学者であった。
許慈・孟光・来敏・尹黙・李センは博学多識であり、尹黙は「左氏」に精通していた。
徳行の点で称讃を受ける事はなかったけれど、誠に皆一代の学者であった。
[言焦]周は文章の解釈に広く通じ、当代の大儒であって、董仲舒・揚雄の水準に達しており、
郤正は絢爛たる文辞を用い、張衡・蔡[巛邑]の面影があり、
それに加えて、その出処進退には、君子が見習うべきものがあった。
この二人は、晋における事績は少なく、蜀における事績が多かったので、載録した。
黄李呂馬王張伝 第十三
黄権 李恢 呂凱 馬忠 王平 張嶷
評にいう。
黄権は度量が広くて思慮深く、李恢は公正な心を持って自ら役目を買って出、
呂凱は節操を守って微動だにせず、馬忠はおとなしい人柄ながら決断力(毅)に富み、
王平は忠誠勇武にして厳しい生活態度を示し、張嶷は優れた見識をもって果敢に行動した。
彼らが皆自己の長所を発揮して、名声を上げ出世できたのは、彼らを必要とする時代に遭遇したためである。
蒋[王宛]費〔示韋〕姜維伝 第十四
蒋[王宛] 費〔示韋〕 姜維
評にいう。
蒋[王宛]は万事きっちりしていて威厳があり、費〔示韋〕は寛容で人を差別無く愛し、
ともに諸葛亮の定めた規範を受け継ぎ、その方針に沿って改めなかった。
そのために辺境地帯は安定し、国家は和合した。
しかしながら、小さな町を治める道を十分にわきまえず(広郡の長であった頃の蒋[王宛]の事)、
公務以外の場における見の処し方を十分わきまえていなかった(魏の降人に殺された費〔示韋〕の事)。※
姜維はほぼ文武両面の才を備え、功名を上げる事を志したが、
軍勢を軽々しく扱い、むやみに外征を繰り返し、明晰な判断を十分にめぐらす事ができず、
最期は身の破滅を招く事になった。
『老子』に、「大きな国を治めるのは、小さな魚を煮るのに似る」
(小さな魚を煮るのに突付き回してはいけないように、煩瑣な法令で民に干渉してはならない)と述べている。
ましてせせこましい小国において、たびたび民の生活を乱すような行動を起こしてよいものだろうか。
※ 臣裴松之は考える。蒋[王宛]・費〔示韋〕は宰相として、よく国民を一つにまとめるよう心がけ、
一度も功業を求めていい加減な軍事行動をおこして国に損害を与えることなく、
外は駱谷の軍を撤退させ、内は国内安定の身を保った。
小さな町を治める道や、公務以外の身を処し方が、どうしてそれほど問題であろう。
いまそれらが不十分だった事を非難して、上に述べた優れた事績を無視している。
したがって、読者には、批判の根拠が何か理解しかねる結果になっている。
ケ張宗楊伝 第十五
ケ芝 張翼 宗預 楊戯
評にいう。
ケ芝は堅実貞正、簡潔明瞭な人柄で、職務に当ってはわが家の事を忘れた。
張翼は姜維の鋭気に抵抗し、宗預は孫権の厳しい発言に対抗し、いずれも称讃されるべきところがあった。
楊戯は人物の評定を行ったが、その意図は人に優れた点を見出す事にあった。
しかしながら、その知恵には欠陥があり、危うく災難にかかるところだった。