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ホウ統法正伝 第七
法正
ホウ統 法正
蜀の快進撃に多大な貢献
字は考直。
建安の初年、天下は飢饉に見舞われ、法正は同郡の孟達と共に蜀に行き、劉璋の元に身を寄せた。 しばらくしてから新都の令となり、後に召されて軍議行為に任ぜられた。 重用されないうえに、同じ村の出身で一緒に掛り人になっていた者に品行が悪いと誹謗されて、志を得なかった。
益州別駕の張松は法正と仲が良かったが、劉璋が共に大事を行う器量を持たないことを思いやって、 いつも心中歎息していた。張松は荊州で曹公と会見をして帰ってくると、 劉璋に、曹公と絶交して先主と結ぶように勧めた。 劉璋が「使者は誰がよいか。」というと、張松は法正を推薦した。 法正は辞退したけれども、やむを得ず赴いた。 法正は帰ってくると、張松に先主が優れた武略の持ち主である事を説明し、 密かに相談して計画を同じくし、共に君主として奉載せんと願ったが、いまだ機会がなかった。
後に、曹公が大将を派遣して張魯を討伐しようとしていると聞いて劉璋が恐怖の年を抱いているのを利用し、 張松は選手を迎え彼に張魯を討伐させるのが良いと、劉璋に進言し、再び法正に命令を承らせた。 法正は劉璋の命令を伝えた後、内々で先主に献策していった。
「明将軍(との)の英才をもって、劉牧の惰弱につけこんでください。 張松は州の股肱の臣でありますが、内部で呼応いたします。 その後益州の豊かな富を元手とし、天から授かった堅個な地勢を頼みとなさいませ。 それらを基に功業を成就するのは、掌を返すようにたやすい事です。」
先主はこれをもっともだと考え、長江をさかのぼって西へ向かい、劉璋とフで会見した。 (張魯征討の為)北方葭萌まで行くと、南へ取って返し劉璋を捕らえた。 鄭度は劉璋に策を進言した。先主はこれを聞き知って不快に思い、法正に相談した。 法正は、「結局取り上げられないでしょうから、ご心配なさることはありません。」といった。
劉璋は果たして法正の言ったとおり群臣に向かって、 「わしは敵を防いで民衆を落ち着かせるという話は聞いているが、 民衆を移動させて敵を退けるなど聞いた事は無い。」といった。 こういう訳で鄭度を退けて、その計略を採用しなかった。 軍がラク城を包囲するに及んで、法正は劉璋に降伏してはどうか?という内容の手紙を送った。
214年、進軍して成都を包囲した。 劉璋の蜀郡太守である許靖が城壁を乗り越えて投降しようとしたが、事が発覚して、果たさなかった。 劉璋は危機が迫っている為に、許靖を処刑しなかった。 劉璋が降伏した後、先主はこの事件のため許靖を軽んじ起用しなかった。
法正は進言した、「天下には虚名を博しながら実質が伴わない者がおり、許靖がそれに当たります。 しかしながら、現在ご主君は大業を始められたばかりで、 天下の人々に対して一人一人説明する訳にはまいりません。 許靖の虚名は四海の内に広く伝わっております。 もし礼遇なさらなければ、天下の人々はこのために、 ご主君が賢者をないがしろになさると思うでありましょう。 敬意をもって丁重に扱われ、よって世間の目をくらまし、 昔(戦国時代)、燕王が郭隗待遇したのを真似られるがよろしいでしょう。」
先主はそこで許靖を厚遇した。
法正を蜀郡太守・揚武将軍に任じて、外は幾内を統治せしめ、内は策謀をあずからせた。 (法正は)以前加えられたわずかな恩恵、ちょっとした怨みにも必ず報復し、 自分を非難した者数人を勝手に殺害した。
ある人が諸葛亮に、「法正は蜀郡においてあまりにも好き勝手をやりすぎています。 将軍には主君に言上なさり、彼の刑罰・恩賞の権限を抑えるべきです。」というと、諸葛亮は答えた、
「主君は公安におられたとき、北方では曹公の強大さにおびえ、 東方では孫権の圧迫に気兼ねし、近くは孫夫人が手元にあって変事を起こさぬかと心配しておられた。 このような進退共にままならぬ時に、法考直(正)は先主を補佐して、ひらひらと空高く舞い上がらせ、 二度と他人の制約を受けないですむようにしてくれたのだ。 どうして法正に思いのままにふるまってはならぬと禁止できようか。」
その昔孫権は妹を先主に娶わせたが、妹は才気と剛勇において兄達の面影があった。 侍〔女卑〕百余人はみな自分で刀を持ち侍立していた。 先主は奥に入るといつも心底から恐怖を覚えびくびくした。 諸葛亮はまた先主が常々法正を信頼しているのを知っていたので、このように言ったのである。
217年、法正は先主に進言した、
「曹操は一度の行動で張魯を降し、漢中を平定しましたのに、 その勢いに乗って巴・蜀を手に入れようとはせず、夏侯淵と張[合β]を駐屯し守備させて、 自身は慌しく北方へ帰還しました。 これは彼の智謀が及ばず力量が不足したためではなく、 きっと内部に差し迫った心配事があるからに違いありません。 今、夏侯淵・張[合β]の才略を推し量りますに、国家の将帥を荷いきれません。 軍勢こぞって討伐に赴いたならば、必ず勝つ事が出来ましょう。 これに勝った後農業を広げ穀物を蓄積して、隙を伺います。 うまくいけば、仇敵を覆して、王室を尊崇する事ができ、 普通でも雍州・涼州を侵食し領土を拡大する事が出来、 上手く行かなくても要害を固く守って持久の計を取る事が出来ます。 これは思うに、天が我に与えたもう好機で、機会を失ってはいけません。」
先主はその策に賛成した。
そこで諸将を率いて漢中に兵を進め、法正もまた同行した。 219年先主は陽平から南に向かいベン水を渡り、山沿いに少しずつ進んで、定 軍・興勢において陣営を張った。 夏侯淵は兵を率いて来襲し、その地を奪い合った。 法正が「攻撃すべきです。」というと、先主は黄忠に命じて高所に登らせ、 軍鼓を打ち鳴らし歓声を上げて攻撃させ、夏侯淵の軍勢をおおいに打ち破り、夏侯淵らの首を斬った。
曹公は西斉してきたが、法正の献策を聞き知ると、 「玄徳(劉備)はこのような策がある事を考え付かず、 誰かに教えられたに違いないと、わしは元から睨んでいた。」といった。〔1〕
先主は漢中王になると、法正を尚書令・護軍将軍に任命した。 翌年逝去した。 時に45歳であった。 先主は何日間も彼を悼んで、翼侯の諡号を贈った。
諸葛亮と法正とは性向が違っていたけれど、公の立場に立って互いに認め合っていた。 諸葛亮は常に法正の智術を高くかっていた。
先主が帝位についたのち、東方の孫権を征討して関羽の仇を討とうとしたとき、 群臣の多くは諫めたが、まったく聞き入れなかった。
222年、大軍が敗北し、引き返して白帝に滞留したとき、諸葛亮が歎息して、 「法考直が健在だったなら、よく主上を抑えて東征せずに済ませたであろうし、 たとえ東征しても、きっと危険を避けえたであろうに。」といった。
裴松之の注
〔1〕臣裴松之は考える。
蜀と漢中とは唇と歯の如く存亡を共にする関係にある。 劉主の英智があって、どうしてこの策に考え及ばないことがあろうか。 計略をまだ展開しないうちに、法正が先にこれを発言しただけである。
そもそも、よき策略を聞き入れ採用することによって功業を成就する事は、 覇者・王者となる君主なら誰でも皆同じではなかろうか。
魏武(曹操)が人に教えられた策だと思ったとしたなら、なんと愚劣な考えであろう。 これは思うに悔し紛れの言葉であって、事実を推測したまともな発言ではなかろう。
私的感想
法正こそ蜀の智謀の士でしょう。
[广龍]統は早死にしてしまいましたが、法正がよく献策をして蜀・漢中制圧に多大な功績を残しました。 諸葛亮も法正なら安心して任せられたようですし、自分は内政に力を注ぐ事が出来たでしょう。
法正が好き勝手した時に、讒言があってもたしなめ法正を信頼しました。 それ程であったのです。 陳寿の評で魏の程c・郭嘉の輩といえようか。 と、語っていますが正に郭嘉と似た様な感じですね。