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関張馬黄趙伝 第六
馬超
西涼の錦と呼ばれた男
字は孟起。
馬超は軍を統率した後、韓遂らと連合して軍を進めて潼関までやってきた。 曹公(曹操)は一人馬に乗り、韓遂・馬超と会談した。 馬超は剛力を頼みに、ひそかに突き進んで曹公を捕まえるつもりだったが、 曹公のの左右を警護する将の許[ネ者]が目をいからせて彼を睨んでいるので思い切って、手を下せなかった。
曹公は賈[言羽]の策を用い、馬超と韓遂の仲を引き裂いたので、たがいに猜疑しあうようになり、 軍はその為大敗北を喫した。馬超を追撃したが、丁度北方で事件が起こったので、軍を引いて東に帰った。 楊阜は曹公に「馬超は、キョウ族の心をよくつかんでおります。 もし大軍が引き上げた後、彼に対する防備を厳重に行わないならば、 諸郡は我が国の領土ではなくなるでしょう。」 馬超は、はたして諸蛮族を率いて隴上の郡県を攻撃し、全てこれに呼応した。
涼州刺史の韋康を殺害して、冀城を拠点とし、その軍勢を配下に収めた。 馬超は自ら征西将軍と称し、ヘイ州の牧を兼務し、涼州の軍事都督となった。 韋康のもとの吏民楊阜らは、共謀して馬超を攻撃した。 馬超は出陣して彼らを攻めたが、下す事が出来なかった。 さらに冀城の城門を閉ざしたので、馬超は城に入ることが出来なくなった。 進退きわまって慌てふためき、かくて漢中に逃走して張魯のもとへ身を寄せた。
張魯は共に事を計るに足らぬ人物だったので、内心苛立ちを覚え、 先主が成都にいる劉璋を包囲したと聞くや、 密書を送って降伏を願い出た。 先主が使者をやって馬超を迎えさせると、馬超は軍兵を率いて、 まっすぐに城下に到着した。 城中は恐れおののき、劉璋はただちに降伏した。
馬超は平西将軍に任命され、前の通り都亭侯に封じてやった。 先主は漢中王になると、 馬超を左将軍・仮節に任じた。 211年驃騎将軍に昇進し、涼州の牧を兼務した。 222年逝去した。時に47歳であった。
死に臨んで上疏し、 「私の一門、二百人余りは曹孟徳によって誅殺されほとんど絶滅いたしましたが、 ただ従弟の馬岱だけが残っております。 衰えた家の祭祀を継ぐべき男として、 その事をくれぐれも陛下にお託ししたいと存じます。 後は言い残す事もありません。」と述べた。
馬超に威侯の諡号を追贈した。
私的感想
馬超に関しては演義の場合馬騰が殺されてそれを恨みに思って旗揚げしたような感じになっていますが、 実際は逆で馬超が反乱を起こし、曹操を攻めるも敗北。 その罪で馬騰ら馬一族は殺されました。 その為馬超は遺言で「一門誅殺された」と言っています。