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張厳程[門敢]薛伝 第八

張紘

張紘 厳シュン 程秉 [門敢]沢 薛綜

東部と呼ばれた張紘の生涯

字は子綱。

京都(みやこ)にて学問をした。 故郷の郡に戻った後、茂才に推挙され、三公の府(やくしょ)からも招かれたが、 いずれも出仕せず、戦乱の災いを避けて江東へ移住した。

孫策が挙兵すると、そのもとで初めて仕官した。 孫策は上表して張紘を正議校尉に任じ、丹楊の討伐に参加した。 孫策が自ら陣頭に立とうとした時、張紘はそれを諫めていった、

「指揮官と申します者は、計略作戦がその元において立てられ、 全軍の者がその声明を託すところであって、 軽はずみな行動を取り、 自らちっぽけな敵に立ち向かったりしてはならぬのです。 どうか貴方様には、天与のご資質を大切にされ、天下の者達の期待に応えられて、 国内の貴賎の者達に心配の念をおかけになりませぬように。」

199年、孫策が張紘を使者として派遣し、 許に赴いて上表文を奉らせたところ、張紘はそのまま許に引き留められた。 孔融他の人々がそれぞれに彼と親しい交わりを結んだ。〔1〕

曹公(曹操)は、孫策が逝去したと聞くと、その死後のごたごたに乗じて呉をうとうと考えた。 張紘はそれを諫めて、他人の死亡に乗ずるのは、古の掟に外れるのみならず、 もし事が上手く行かなかった場合には、怨みを買い好を棄てる事になるのであるから、 むしろこれを機会に恩義を施しておくにこした事は無い、との意見を述べた。 曹公はこの意見をいれて、ただちに上表して孫権を討虜将軍に任じ、 会稽の太守の職務にあたるようにとりはからった。

曹公は(また)、 孫権が自分の支配下に入るように張紘から勧めさせようと考え、 張紘を地方に出し、会稽東部都尉に任じた。〔2〕

後に、孫権は張紘を長史に任じて、合肥の遠征に連れて行った。 孫権は、軽装備の騎兵を率い自ら先頭に立って敵にぶつかって行こうとした。 張紘はそれを諫めていった、

「そもそも兵器と申すものは不吉な道具、 戦争と申すものは危険な為事(こと)なのです。 今貴方様は、盛んなる意気を恃(たの)んで、強暴な敵軍を軽んじておられますが、 全軍の者達は(貴方様のそうした行動に)皆心を寒からしめておるのでございます。 たとえ敵将ヲ斬り軍旗を奪って、戦場に威を振るわれたといたしましても、 それはそれぞれの武将達のなすべき事であって、総指揮官のなさるべき事ではございません。 願わくは、お心に覇王としての計略をお持ちいただきますように。」

孫権は、張紘の意見を入れて、自らが陣頭に立つことは中止した。 合肥の戦役から帰還した後、次の年にもまた、孫権は軍を動かそうとした。 張紘はそれを諫めて、出陣の計画は取り止めとなった。

張紘は都を(呉から)秣陵まで進出させるべきだとの建作をし、 孫権はそれをいれて(遷都を行った。都が秣陵に移された後)呉に戻って家族の者達を迎えてくるよう命ぜられ、 呉へ往復する途上で、病気の為、張紘は死去した。

危篤になった時、息子に託して(孫権への)置手紙を遺した。 死去した時、年は六十歳であった。孫権は、手紙を読んで涙を流した。

裴松之の注

〔1〕「呉書」にいう。

張紘は許にやってくると曹公から色々恩義を受けたが、心中、昔の主君との恩義に惹かれ、 呉に戻って復命をしたいものと考えていたので、病気を理由にしてそうした任官を固辞した。

〔2〕「呉書」にいう。

孫権が孫策の後継いだとき、まだ若年であった。 太夫人(孫権の母)は内外共に多難である事から、 (若い孫権の事を)深く憂慮して、 しばしば張紘に鄭重な内容の文書を下し、 よろしく孫権を補佐してやって欲しいとの委嘱をした。 張紘はこうした書簡を受け取るごとに(信任を受けた事に対する)感謝の奏上をし、 ひたすら孫権を輔佐して時局を正しく読み取っていく事に心を注いだ。

(孫権のほうでも)新しい事態がおこって密かに方策を練るときや、 上表文の他もろもろの文書を記し、 四方の勢力と友好関係を結ぶときには、 いつも張紘と張昭に命令を下して、その文書の起草に当たらせた。

張紘は元々北方で官職を受けており、呉に長く留まる気持ちが無いのではないかと疑う者もあったが、 孫権は、そうしたことを意に介することが無かった。 彼は、孫権の日常生活の場に侍して、ちょっとした言葉や正面からは述べぬ意見によって、 常々孫権を誡(いまし)め正していた。

「江表伝」にいう。

元来、孫権は群臣達に対して多くその字で呼びかけていたのであるが、 ただ張昭を呼ぶときには「張公」といい、張紘には(その、会稽東部都尉の官職によって)「東部」といった。 この二人を尊重しての呼び方であったのである。

私的感想

呉3人目のUPです。 所謂地味(失礼)な人かも知れませんが、立派な人です。

華[音欠]との決定的な違いは、 そのまま魏に留まった華[音欠]に対して張紘はちゃんと呉に戻っている所でしょう。 注釈にある太夫人からしばしば手紙を貰ったようですが、よほどの信頼があったのでしょう。