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程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 第十
程普
程普 黄蓋 韓当 蒋欽 周泰 陳武 董襲 甘寧 凌統 徐盛 潘璋 丁奉
程普の生涯
字は徳謀。
州や郡の役人となったが、立派な風采があって将来への見通しがきき、人との応対も巧みであった。 (やがて)孫堅の配下に入って征伐に従い、黄巾の一味を討伐し、董卓を陽人で打ち破った。 城攻めや野戦で、身には多くの手傷を負った。
孫堅が逝去した後、今度は孫策に従って、その指揮の下に廬江を攻めてこれをおとした。 軍をめぐらせて、孫策と共に長江を渡って東方に向かった。 孫策は、張英らを打ち破り、次々と城を降したが、程普はそれぞれに功績があって、 兵二千人と騎馬五十匹を加増された。
さらに軍を進めて烏程等を打ち破ったときにも程普の手柄が大きかった。 孫策が会稽に入ると、程普を呉郡の都尉に任じ役所を置いてその統治にあたらせた。
後に丹陽の都尉にうつって、石城に住まいした。 再び(軍を率いて)各地の反乱者達を討伐し、 これら全てを打ち破った。 孫策が祖朗を攻めた時の事、大勢の敵兵に包囲されてしまったが、 程普ともう一人の騎兵とが二人して孫策をかばい、 馬をかけらせ大声で叫んで、矛を構えて敵兵の中に突っ込んだ。 敵兵が道を開いたので、孫策はその後について脱出することが出来た。
後に盪寇中朗将の官を授かり、零陵太守の任にあたった。 (さらに)孫策の配下として劉勳を討伐し、さらに軍を進めて黄祖を攻めた。 帰還すると、軍を石城にとどめた。孫策が逝去すると、程普は張昭らと共に孫権を守り立て、 3つの郡(会稽・呉・丹陽)の各地を巡って服従せぬ者達を平らげた。
さらに孫権の元で江夏の征伐に参加し、その帰途、豫章まで来たところで、本体と分かれて楽安を討伐した。 楽安が平定されると、太史慈に変わって海昏の守備にあたった。 程普は周瑜と共に左右の督となって、曹公(曹操)の軍を烏林(赤壁)で打ち破り、 さらに進んで南郡を攻め、曹仁を逃亡させた。
(こうした功績から)彼は裨将軍の官を授かり、 江夏太守に任ぜられ役所を置いてその統治にあたり、4つの県が食邑として与えられた。 真っ先に孫堅に仕えた武将達の中でも、 程普が最年長であったため、当時の人々は皆彼を程公と呼んだ。
程普は、気前良く他人に経済的援助をなし、好んで士人達と交わりを結んだ。 周瑜が死去したあと、彼が代わって南郡の太守の任にあたった。
孫権が荊州を分割して劉備に与えると、程普は、再び戻って江夏を治めることとなり、 盪寇将軍に昇進した後、死去した。〔1〕 孫権が皇帝を称するようになると、程普の生前の功績を評価して、息子を亭侯に封じた。
裴松之の注
〔1〕「呉書」にいう。
程普は、叛逆者数百人を殺す事になった時、彼らを皆自ら火の中へ投げさせたのであった。 そうした事をしたその日のうちに癩病(らいびょう・ハンセン病?)の症状があらわれて、百日余りで死去した。
私的感想
呉のこの列伝の武将達はかなり有名ではありますが、皆結構短いです。 大体2ページちょっとくらい。 功績や長さを見ると甘寧一人で長いです。 孫家3代に仕えて一番年長だった様ですね。黄蓋より年上だったのでしょう。 演義では黄蓋は老将軍扱いですけど。