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劉[月缶系]太史慈士燮伝 第四
太史慈
劉[月缶系]・太史慈・士燮
太史慈は、字を子義と言い、東來郡の黄県の人である。
若いときから学問を好み、郡の役所に使えて奏曹史となった。 たまたま郡と州との間に確執が起こり、どちらが正しいのか決着が着かず、 先に朝廷に上聞した方が有利となるといった事態が起こった。 このとき州からの上章は既に発送されていて、郡の太守は遅れをとることを心配し、使者に立つべき者を探した。
太史慈は当時、年が二十一であったが、選ばれて都にのぼることになり、昼夜兼行で道を進めた。 洛陽に到着して公車の役所の門までやって来たところ、ちょうど州の役人が取次ぎを願い出ているのを目にした。
太史慈が尋ねた、「あなたは上章の取次ぎを願っているのか。」役人が言った、「そうです。」 尋ねた、「上章は何処にあるのか。」言った、「車の上にあります。」 太史慈が言った、 「上章の表書きに誤りはないかね。持って来てよく見るがよい。」 役人は、彼が東來郡の者であるとは少しも気付かず、言われるままに上章を取り出した。
太史慈は前もって刀を懐に忍ばせており、その場で上章を切り破いてしまった。 役人は飛び上がって大声で言った、「俺の上章が破られてしまった。」 太史慈はその役人を車の陰に引っ張っていくと、語り聞かせた、 「もしあんたが上章を手渡すような事をしなければ、私もそれを破る事が出来なかったのだ。 二人は共に過失があったのだから、私一人がその罪を被るわけは無い。 このまま黙って二人ともこの場を逃れるのが一番だ。そうすれば死ぬべき命も取り止める事が出来る。 二人揃って処刑されることもあるまい。」
役人がいった、 「あんたは郡の為に俺の上章を破いて、 思い通りに事が運んだはずなのに、何でまた逃げたりするんだ。」 太史慈が答えた、「元々郡から派遣されたのは、 ただ上章が受け取られたかどうかを確かめて来る為であった。 俺はやりすぎて、上章を破ったりしてしまった。 このまま帰れば、この事で譴責(けんせき)を受ける事にもなろう。だから一緒に逃げようと言うのだ。」 役人はこの言葉に納得して、その日のうちに逃亡した。
太史慈は、役人と共に城門を出たが、そこで姿をくらませて引き返し、郡の上章を差し出した。 州の役所はこの事を聞くと、もう一度、役人を派遣して上章を差し出させたが、 掛の役人の方では、先に上章が来ているという理由で、もう取り上げてはもらえず、 州がその事件について不利な処分を受けた。 この事があって、太史慈は名を知られるようになったが、州の役所からは憎まれ、 その事で禍を被る事を心配し、身を隠すため遼東に赴いた。
北海国の相であった孔融は、彼のことを伝え聞いて中々の人物だと考え、 しばしば人を遣って彼の母親のご機嫌うかがいをさせ、あわせて贈り物をした。 この当時、黄巾が反乱を起こし乱暴を働いていた事から、孔融は軍を進めて陣営を置いていたが、 そこで反乱者側の管亥の包囲を受けた。
太史慈が遼東から戻ってくると、母親が彼に言った。 「おまえは孔北海殿とはまだ面識も無いのに、お前がおらぬ間に、 色々と生活のお心遣いをいただいて、 それは旧くからの知人以上に心のこもったものでありました。 いま賊の包囲を受けておられます。 あの方の元に駆けつけるがよろしい。」
太史慈は母親の元に三日だけ留まった後、一人徒歩で孔融の元に赴いた。 その時にはまだ包囲が厳しくなかったので、夜陰に紛れ、隙をうかがって城中に入ることが出来た。
孔融に目通りすると、その場で兵士を借りて出撃し賊達を打ちたいと願った。 孔融はそれを許さず、 外からの救援を待とうとした。 (しかし)救援が来ないうちに、包囲は日ごとに厳しくなった。 孔融は、平原国の相の劉備に急を告げたいと思ったが、城内の者には誰も脱出の出来る者がいなかった。
太史慈は自分がその役にありたいと願い出た。 孔融がいった、 「現在、賊の包囲は極めて固く、人々は皆不可能だといっておる。 あなたのお気持ちは壮(さか)んであっても、実際は難しいのではないか。」
太史慈は答えていった、「かつて府君(あなた)様には老母の為に周到なお心遣いを賜りました。 老母はそうした処遇に感激して、府君様の危急に役立たせようと私をこちらに来させました。 それは、私にも取るべきところがあり、 こちらに参ればきっとお役に立てるであろうと考えたからなのでございます。 現在、人々は脱出不可能だと申しておりますが、私もまた不可能だと申しましたなら、 府君様ら賜ったご恩義と、老母が私をこちらに来させました意とに背く事になるではありませんか。 事態は切迫いたしております。どうかお迷いになりあせぬように。」
孔融はこの言葉にうなずいた。 そこで旅装を整え食糧をつつむと、夜明けを待って、箙を帯び弓を手に取り馬に乗り、 二人の騎兵を従わせ、各々に一つずつ的を持たせて、門を開いてまっすぐに飛び出した。 その付近にいた外の包囲軍の者達は皆びっくりし、兵馬が一斉に押し寄せて来た。 太史慈は馬をめぐらせて城壁の下の塹の中に乗り入れ、持ってきた的を一つずつそこに立てると、 塹を出たそれらを射た。 的を射終わると、まっすぐ城門に入った。
次の日の朝も同様にしたが、包囲方の者は、これに立ち上がる者もおれば、臥(ね)たままの者もいた。 そこで馬に鞭をあてると、まっすぐ囲みの中を突っ切って駆け抜けた。 賊達が気付いた時には、太史慈は既に通り抜けており、加えて数人を射殺し、 皆ばたばたと倒れたので誰も後を追おうとする者は無かった。
このようにして平原国に到着すると、劉備を説きつけていった、 「私めは東來郡の田舎者であって、孔北海殿とは親戚関係にあるのでも、 同郷の好(よしみ)があるのでもございません。 ただ立派なご声明とご志操とに心を引かれ、 禍いと憂いを共にする関係を結んでいただいておるのでございます。 只今管亥めが暴虐を行い、北海殿はその包囲を受けて、孤立無援で、今日か明日の危機的状況にあります。 貴方様が仁義を行われる事で名があり、よく他人の危急を救われますということから、 北海殿は心より貴方様をお慕いし、頸を伸ばしてお頼りせんと、 私めを遣わし、白刃を冒し、 厳重な包囲を突破して、 万死の中からご自身の生命を貴方様にお託しするとお伝えするように命ぜられました。 貴方様だけがこれをお救いいただけるのでございます。」
劉備は顔つきを改めていった、 「孔北海殿は、この広い世界のうちに劉備(私)のおることを知っていてくださったのか。」 すぐさま精鋭三千を太史慈につけて遣わした。 賊達は、兵が来たと聞き、囲みを解いてばらばらに逃げ去った。 孔融は救出されると、以前にも益して太史慈を尊重し、「あなたは私の良き友人だ。」といった。
事態がおさまると、太史慈は帰って母親にその事を申し上げた。 母親がいった、 「お前が孔北海殿にご恩返しが出来た事を嬉しく思います。」 揚州刺史の劉[月缶系]は、 太史慈と同郡の出身であったが、 太史慈が遼東から帰ってきた当初には、まだ面会する機会が無かった。 しばらくして太史慈は長江を渡ると、曲阿に赴いて劉[月缶系]に目通りした。 劉[月缶系]の元を立ち去らぬうち、たまたま孫策の軍が押し寄せてきた。 劉[月缶系]に対し、太史慈を大将軍に任ずればよいと勧める者がいたが、 劉[月缶系]は、「子義(太史慈)殿を使ったりすれば、 許子将(許劭)殿が俺を事を笑ったりされないだろうか。」といい、 太史慈に敵の様子を偵うだけの任を与えた。
(敵情偵察に出た太史慈が)騎兵を一人だけしか従えておらぬときに、たまたま孫策と出くわした。 孫策は騎兵十三人を従え、それぞれ韓当・宋憲・黄蓋といった(勇猛の士)であった。 太史慈は何のためらいもなく前に突き進んで戦いを挑み、孫策と正面から渡り合った。 孫策は太史慈の馬を突き刺して、太史慈が項(うなじ)の所につけていた手戟(トマホーク)を奪い取り、 太史慈の方でも孫策の兜を奪った。丁度その時敵味方双方の歩兵や騎兵が駆け集まってきたので、 二人は左右に分かれた。
太史慈は、(孫策に敗れた)劉[月缶系]と共に予章へ逃亡しようとしたが、 (その途中)蕪湖で姿をくらませ、逃げて山中に入ると、(勝手に自分が)丹楊太守だと称した。 この当時、孫策は宣城より東の地域の平定を終わり、(けい)から西の六県だけが彼に服していなかった。 太史慈はこうした情勢を見て、県まで出てそこに留まり、 屯府(軍事的な行政機構)を立てたところ、 山越達が多数帰属してきた。 孫策は、自ら太史慈の討伐を行い、結局、太史慈は捕虜となった。
孫策は、すぐさま彼の縄目を解かせると、手を執っていった。 「神亭の時のことを覚えておられるだろうか、もしあなたがあの時、 私を捕らえていたら、どう処分されただろう。」 太史慈がいった、「想像もつきません。」 孫策は大いに笑うといった、 「今こういう事となったが、あなたが私にしたであろうような処遇をとろう。」 その場で門下督の役目につけ、呉に戻ると兵士を預けて、折衝中朗将に任じた。
のちに劉[月缶系]が豫章で死亡し、 その配下の兵士や民衆達一万余人が身の依(よ)せどころを失ってしまっていたとき、 孫策は太史慈に命じて、豫章にいって彼らを安撫させようとした。
孫策の側近は揃って、「太史慈はきっと北に走って戻っては来ますまい。」といった。 孫策がいった、「子義(太史慈)殿は私を棄てて他に誰と力をあわせられるというのか。」 昌門で太史慈の出発を見送り、腕をとって別れを告げていった、「いつ頃戻ってこられるだろうか。」答えた、 「六十日以上はかかりません。」はたして約束の期日どおりに太史慈は戻ってきた。
劉表の甥の劉磐は勇猛であって、しばしば艾・西安などの諸県に攻め込んで荒らしまわっていた。 孫策は、そこで建昌近辺の六件を割いて、太史慈を建昌都尉に任じて(六件の統治に当らせ)、 海昏にその役所を置かせると、同時に武将達を指揮して劉磐の進行を食い止めさせた。 劉磐は姿を潜め、それ以後、進入して荒らしまわる事は無くなった。
太史慈は身の丈七尺七寸、見事な髭をはやし、 臂(かいな・肘)が長くて射(ゆみ)に巧みで、百発百中であった。 孫策に従って、麻保の反乱者たちを討伐したときのこと、 賊の一人が屯の中の楼の上から悪口を浴びせかけた。 その賊は手で楼の棟(はり)をつかんでいたのであるが、太史慈が弓を引いてこれを射ると、 矢は手を貫いて手を棟にぬいつけた。 屯を外から包囲している一万もの人々は、 揃ってその見事さをはやし立てた。 彼の弓の妙技はかくの如くであったのである。
曹公(曹操)はその評判を聞いて、太史慈に手紙を送った。 篋(ふばこ)に封がしてあったが、それを開けてみても何も書いてなく、 ただ当帰(薬草。帰る当(べ)しという謎)が入っているだけであった。 孫権が呉国を支配するようになると、太史慈には劉磐の進出を抑える力があるということで、 南方地域の諸般の事の処理を皆彼に預けた。
年四十一で、206年死去した。 息子の太史享は、越騎校尉の官にまで昇った。
私的感想
初・呉書の人物伝です。
何故太史慈を最初に選んだかというと、 ただ単に演義と内容が違う人物にしようかなと思って、太史慈にしました。 彼が演義で有名な孫策との話と、最期の張遼の策にはまって射殺される話がありますが、 読んで頂けると分かるとおり、最期は特別戦死した訳ではなく、普通に病死のようですね。
そもそも206年なので有名な赤壁の戦い(208年)すら起こってません。 この人の列伝は短いと思ってたら結構長いですね。