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程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 第十
甘寧
程普 黄蓋 韓当 蒋欽 周泰 陳武 董襲 甘寧 凌統 徐盛 潘璋 丁奉
甘寧の生涯
字は興覇。
若いときから気概を持って、男伊達を好み、無類の若者達を集めて、その頭領となっていた。 仲間は大勢で集団を成し、弓や弩をたばさみ、水牛の尻尾の旗指し物を背に付け腰には鈴を帯びていた。 人々は鈴の音を聞くとすぐに、甘寧(の一味がのし歩いている事)を知ったのであった。 人と出会った場合、例えそれが地方の長官であろうと、盛んな持て成しをした者とは一緒に楽しんだが、 そうしない時には配下の者をやってその財産を奪わせた。
彼が属する地方長官の所管轄内で強盗傷害事件があった時には、 彼がその摘発と制裁に当たるなど(傍若無人にふるまって)二十余年余りにもなった。 (のちに)暴力沙汰はやめ、いささか先賢たちの書物を読むと劉表の元に身を寄せ、そのまま南陽に住んだ。 しかし取り立てられることもなかったので、やがて黄祖に身を寄せたが、黄祖も彼を普通一般の食客として遇した。
そこで甘寧は呉に身を寄せた。周瑜や呂蒙が揃って彼を重く用いるようにと推挙をし、 孫権は枯れに特別の待遇を与えて、元からの臣下と変わりなく扱った。
甘寧が献策していった、
「ただいま、漢の王朝の命運は日々に衰えてきて、 曹操はいよいよほしいままに振る舞い、やがては帝位を簒奪いたしましょう。 南荊(荊州)の地は、山や丘の有様が便宜にかない、大小の河川がそこを流れて、 誠に御国が西方に勢力を伸ばされる際の拠点ともなる地でございます。 私は劉表の様子を詳しく見てきたのでございますが、彼には遠い先への配慮が無い上に、 息子達も彼以上に駄目であって、 とても父親の仕事を継いでその基を後代に伝えられるような者達ではございません。
陛下には急ぎ荊州攻略の謀をお立てくださいますように。 曹操に遅れを取られてはなりません。荊州攻略のための策としては、 まず第一に黄祖を手中にされるのが宜しゅうございます。黄祖は既に年を取り、 耄碌(もうろく)が酷く、金も食料も乏しくなって、側近の甘言に乗せられ、 ひたすら金儲けに走り、役人や兵士達から搾取をいたしております。 (そのため)役人や兵士達は心中に不満を募らせ、舟も平気も壊れたまま修理はされず、 農耕に励む物もなく、軍法は守られず兵士達はばらばらになっております。
陛下が軍を進められれば、彼を破る事が出来るのは必定でございます。 黄祖の軍を破られました上で、隊伍を整えて西方に向かい、西方の楚関を占拠されますならば、 味方に有利な情勢はさらに展開して、やがて巴蜀の地の奪取も可能となるのでございます。」
孫権は、この意見に深くうなずいた。張昭はこの時同席していたのであるが、これに反論をしていった、 「呉のまち(蘇州)においても人心はまだ安定しておらず、もし軍が本当に西に向かったならば、 きっと反乱が起こるでありましょう。」
甘寧が張昭に言った、 「陛下はあなたに蕭何の任を付託しておられますのに、 あなたが留守を任されながら反乱を心配されるようでは、 古人と同様の勲功を立てたいと望んでおられる事と矛盾するではありませんか。」
孫権は杯をさしていった、「興覇殿、本年の軍事行動は、この酒のように、 すっぱりと全てあなたに引き受けてもらおう。 あなたは、ただひたすら軍略に心をめぐらされ、黄祖攻略を確実な物にされよ。 それを可能にすることこそがあなたの務めなのであって、張長史の言葉など心にかける必要は無い。」 孫権は、このようにして軍を西に進め、はたして黄祖を虜にし、 その配下の軍勢をそっくり手に入れることが出来た。 そこで甘寧に軍を授けて、 当口に軍を駐めて(守りに当たらせた)。
のちに、周瑜の指揮の元で、曹公の軍を烏林(赤壁)で食い止めて打ち破った。 (引き続き)曹仁を南郡に攻めたが、まだそれを攻め落とす事が出来なかった時、 甘寧は、先に夷陵まで軍を進めてそれを奪取すべきだとの建策をし、 自ら軍を進めて苦もなくその城を奪い、 城内に入って守りを固めた。
この時、配下にいるのは数百人の兵で、(降伏して)新しく編入した者を加えても、 やっと千人になるだけであった。曹仁はそうした情況を知ると、五、六千人をやって甘寧を包囲させた。 甘寧の軍は長期間にわたって攻撃を受け、敵方は高い楼を建てて、そこから雨のように城内に矢を射掛けた。 兵士達は畏れおののいたが、甘寧だけは楽しげに談笑をし、いささかも気にかける様子はなかった。 (やがて)甘寧が使者を遣って周瑜に事態を報告すると、周瑜は呂蒙の計に従い、 武将達を率いて包囲軍を追い散らした。
のちに、魯粛の指揮下で、益陽の守備にあたり、関羽の進攻を食い止めた。 関羽は、三万の軍勢を擁すると号し、自ら精鋭兵五千人を選んで、上流十余里の浅瀬に配置し、 夜のうちに浅瀬を渡渉するという情報が伝わった。 魯粛は武将達を集めて対応策を議した。
甘寧は、その時、配下に三百の兵を持っていたのであるが、その場で発言をした、 「もしあと五百人を私の配下に加えていただけますならば、私が行ってこれに対処いたしましょう。 必ずや関羽は私の咳払いを聞いただけで、よう川を渡りますまい。 もし川を渡ったならば、彼は私の囚なのです。」
魯粛がすぐさま千人の兵を選んで甘寧に付けてやると、甘寧は夜をついて軍を進めた。 関羽はこの事を聞くと、軍を留めて渡渉はせず、そこに仮の軍営を定めた。 現在、これにちなんで、その場所は関羽瀬(かんうらい)と呼ばれている。 孫権は、甘寧の手柄を高く評価して、彼を西陵太守に任じ、陽新と下雉との二県を授けた。
のちに、皖の攻略に参加し、升城督(城攻めの突撃隊長)に任ぜられた。 甘寧は練を手に握り、自ら城壁をよじ登って、 軍吏や兵卒達の戦闘をきり、ついに敵を破って朱光を捕らえた。 手柄の評定においては、呂蒙が一番となり、甘寧はそれに続く者とされて、折衝将軍に任ぜられた。
のちに、曹公が軍を儒須へ軍を進めてくると、甘寧は前都督となり、 勅命を受けて敵の先鋒の軍営に攻撃をかけることとなった。 (その出撃に際し)孫権が特別に米と酒と様々なご馳走を下賜すると、 甘寧はそれを料理して配下の百余人に食事を与えた。 食事が終わると甘寧は、 まず銀椀に酒を汲んで自らが二杯飲むと、 今度は配下の都督に酌をして与えた。 都督は床に突っ伏したまますぐにはそれを受け取ろうとはしなかった。
甘寧は抜き身の刀を手に取って膝の上に置くと、怒鳴りつけて言った、 「お前が陛下から大切にされているのと、この私が大切にされているのと、どちらが勝るというのか。 その私が命を惜しみもせぬのに、お前だけがどうして命を惜しんだりするのだ。」 都督は、甘寧の厳しい顔つきを見ると、すぐさま身を起こし拝礼をして酒を受け取り、 兵士達の全てにおのおの銀椀に一杯ずつ酒を酌して回った。
二更(夜半に近づいた時刻)になると、枚を銜んで出発をし敵に襲撃をかけた。 敵は驚き慌てて、そのまま退却をした。 甘寧は(この事があって)ますます重んぜられるようになり、 配下に兵士二千人を加えられた。〔1〕
甘寧は粗暴ですぐ人を殺したりしたが、開けっぴろげな性格で将来への見通しが立ち、 物惜しみをせず有能な人物を礼遇し、勇敢な兵士達を養い育てることにつとめたので、 兵士達も彼の為には喜んで働いた。
215年、合肥の攻撃に参加した。この時には伝染病が流行したため(退却の命令が出され)、 軍団は皆既に引き上げて、ただお召し車に扈従(こじゅう)する近衛兵千余人と、 呂蒙・蒋欽・凌統、それに甘寧とが孫権に付き従って逍遥の津の北にあった。 張遼はそうした様子を遠くから窺って知ると、すぐさま歩兵と騎兵とを率いてこれに急襲をかけてきた。 甘寧は弓を手に持って敵に射かけ、凌統らとともに命を的にして戦った。 甘寧は大声で(茫然自失の)軍楽隊に、何故音楽を鳴らさぬのかと叱り付け、 その雄々しさは何ものも犯せぬようであった。 孫権は(甘寧のこの働きを)事の他喜んだ。〔2〕
甘寧の料理番が、ある時失敗をしでかし、呂蒙の元に逃げ込んだ。 呂蒙は甘寧がこの料理番を殺すであろう事を心配して、すぐには送り返さなかった。 のちに甘寧は呂蒙の母親に贈り物をすると、お目にかかってご挨拶したいと申し出てきた。 呂蒙の家の座敷で一緒に会う事になって、それに先立ち、呂蒙は料理番を甘寧の元に送り帰した。 甘寧も呂蒙に殺したりはしないと約束をした。
程なく船に戻ると、甘寧は料理番を桑の木に縛りつけ、自ら弓を引いてこれを射殺した。 その後、水夫にいって船のとも綱を二重にも三重にもして(船をしっかりと繋ぎとめさせると)、 自分は上衣を脱いでその船の中に横になった。 (約束に背き、料理番が殺されたと知った)呂蒙は酷く腹を立てて、太鼓を叩いて、 兵士達を集めると、船のところに押しかけて甘寧を攻めようとした。 甘寧は、この事を聞いても、横になったままで、起き上がろうともしなかった。
呂蒙の母親が素足で飛び出してきて、呂蒙を諫めていった、 「陛下はお前を肉親のように遇され、お前に大事を託しておられます。 どうして私事の腹立ちをもって、甘寧を攻め殺したりしてよいものでしょう。 甘寧が死んだならば、たとえ陛下からの問責がなかったとしても、 お前は臣下にあるまじき事をなした事になるのです。」
呂蒙は、元々孝心が篤く、母親のこの言葉を聞くと、からりと怒りの気持ちが釈(と)けた。 自ら甘寧の船までやって来ると、笑いながら呼びかけていった、 「興覇殿、母があなたを食事に招いております。急ぎ岸に上がられますよう。」 甘寧は涙を流し嗚咽をしながらいった、「あなたには申し訳の無いことをした。」 呂蒙と一緒に戻ると母親に目通りをし、終日歓を尽した。
甘寧が死去すると、孫権はその死を痛惜した。
裴松之の注
〔1〕 「江表伝」にいう。
孫権は甘寧に三千人を預けて前都督とならせた。 孫権は、密かに甘寧に、夜陰に乗じて魏の軍に攻め込むよう命じた。 甘寧は命を受けると配下の勇猛は百人あまりを選んで、曹公の軍営の間近まで突入した。 陣屋に攻め入ると数十の首を斬った。 北軍は驚き慌て太鼓を打って騒ぎ立て、赤々と火がともされたが、 その時には、甘寧は既に自軍の陣営に戻っており、笛や太鼓を鳴らして、万歳を叫んだ。
そのまま夜中に孫権に目通りをすると、孫権は喜んでいった、 「老い耄れめを驚かせてやる事が出来たか。ひとまずあなたの肝っ玉を見せてもらった。」 その場で絹千匹と刀百口とを賜った。 孫権がいった、「孟徳(曹操)には張遼がおり、私には興覇がいて、丁度釣り合っておるのだ。」 一ヶ月余り軍を留めたあと、北軍はさっぱりと引き上げていった。
〔2〕 「呉書」にいう。
凌統は、自分の父親の凌操が甘寧の為に殺された事を怨んでいた。 甘寧はいつも凌統を警戒し、会おうとしなかった。 孫権も、凌統に遺恨をはらそうなどとしてはならぬと命じていた。
ある時、呂蒙の家に人々が集まった時の事、酒も酣(たけなわ)となると、凌統は刀を持って舞い始めた。 甘寧が立ち上がっていった、「私も双戟の舞い(二つの戟を手に持つ舞い)が舞えます。」 呂蒙が言った、「甘寧にも出来るであろうが、私の上手には及ばぬ。」 そういうと刀を取り楯を持って、身をもって二人の間に割り込んだ。 後に、孫権は凌統の気持ちの深さを知ると、甘寧に命じ、 兵士を率いて速やかに半州に移ってそこに駐屯するようにと命じた。
私的感想
正史と演義でもその差は特にありません。 孫権の台詞の、曹操に張遼がいるならわしには興覇がいる。 と言ったのはあまりに有名ですね。 演義では粗暴な面はそれ程見受けられませんが、料理番を殺したりそれなりに好き勝手やってたようです。
甘寧と凌統が演義では和解する場面がありますが、正史では特にそういった記述はなく、 逆に凌統の恨みの深さを物語っている記述があります。 また甘寧が蜀の沙摩柯に夷陵の戦い辺りで射殺されたという記述は特にありません。