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程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 第十
徐盛
程普 黄蓋 韓当 蒋欽 周泰 陳武 董襲 甘寧 凌統 徐盛 潘璋 丁奉
曹丕の侵攻を食い止める
字は文嚮(ぶんきょう)。
世の中が乱れてきたので、故郷を棄てて呉郡に仮住まいし、度胸と義気がある事で人々に知られた。 孫権が呉の勢力を纏めるようになると、彼を別部司馬に任じて、 兵士五百を授け、柴桑県の長の任にあたりつつ、黄祖の進出を食い止めさせた。 黄祖の息子の黄射が、あるとき、数千人を率い、長江を下って徐盛に攻撃を仕掛けたことがあった。
徐盛の手元には、その時、軍吏と兵士とをあわせても二百人に満たぬ数しかいなかったであるが、 これを迎えて一歩も退かずに戦い、黄射の軍吏や兵士達一千余人に傷を与えた。 その後、城門を開いて兵を繰り出して戦い、敵を徹底的に打ち破った。 黄射は、この事があって以後、あとを潜めて二度と進攻してくる事が無かった。 孫権は(こうした功績を評価して)彼を校尉に任じた。
引き続いて、 (宣城の)臨城の南辺に住む山越の不服住民達を討伐して功績を挙げ、中朗将に転じて、 兵士達の監督と選抜とを司った。曹公(曹操)が儒須へへ軍を進めてくると、 徐盛は孫権の指揮の下でこれを食い止める為に戦った。
魏が、ある時、大挙して横江まで兵を進めてきた事があった。 徐盛は他の武将達と共に横江に駆けつけて魏の軍を撃った。 蒙衝(駆逐艦)い乗っていたのであるが、激しい風にあって、敵方の岸辺に座礁した。 武将達は恐れて誰も船を出ようとしなかったが、徐盛一人は兵を率いて岸に上がると、 敵方へ突撃をかけた。 敵はバラバラになって逃げ退き、多くの死傷者を出した。 風がやんでから帰還した。孫権は、彼の勇敢さを大いに称讃した。
孫権が魏の下についてその藩を称する事になった時、魏は刑貞を使者として遣わし、 孫権に呉王の称号を授けさせた。 孫権は(都の郊外の)徒亭まで出て刑貞を出迎え、 刑貞は威張った様子をしていた。 張昭が腹を立てただけでなく、徐盛も憤激して一緒に並んでいる人々を顧みて言った。
「我々が身命を賭して、御国の為に尽し、許や洛の地を兼併し、 巴蜀を兼呑してしまう事が出来ずにいる為、 我が君に、刑貞等と盟約を結ばねばならないようにおさせてしまった。恥ずかしい事ではないか。」 そういうと涙を滂沱(ぼうだ)と流して泣いた。
刑貞はこの事を聞き、同行の者たちに言った。 「江東の武将や宰相達がこんな風では、(呉の国は)いつまでも他人の下には付いてはおるまい。」
後に徐盛は、建武将軍に昇進し、都亭侯に封じられ、廬江太守の職務に当たって、臨城県を奉邑として賜った。 劉備が西陵まで出てきてそこに陣営を置くと、徐盛はそれに攻撃をかけて蜀の屯(とりで)を奪取し、 軍を向けるところ悉く手柄を立てた。
曹休が洞口まで軍を進めてくると、徐盛は呂範や全[王宗]と共に長江を渡って曹休の軍を食い止めた。 たまたま大風が吹いて、水夫達の大部分が喪われたが、 徐盛は残った兵士を纏めて、曹休と長江を挟んで対峙した。
曹休は兵士達に命じ、徐盛の船に押し寄せて攻撃をかけさせたが、徐盛は寡勢でもって敵の大軍を防ぎ止め、 敵は戦果を挙げることが出来ぬまま、それぞれに軍を纏めて引き上げた。
安東将軍に昇進した。
のちに、魏の文帝(曹丕)は、大挙して軍を進めてくると、長江を押し渡ろうと企てた。 徐盛は献策をし、建業からずっと防護の為の壁を作り、それにすだれを架け渡し、 壁の上に仮作りのやぐらを作りつけ、 長江上には船を浮かべ(敵が近づいて偽の城壁だと察知するのを防がせれば良い)との意見を述べた。 武将達はそんな事をしても無駄だと言ったが、徐盛は譲らず、強硬に主張してこれを作った。
文帝は広陵までやって来て、防護壁を眺めてビックリし、それが数百里に及んで(攻める所が無く)、 しかも長江の水かさも増していたことから、そのまま軍を纏めて退却した。 (反対をしていた)武将達も、ここに至って彼の計略の正しさを認めたのであった。
黄武年間に、徐盛は死去した。
私的感想
立て続けに呉の武将を更新。中々に功績を挙げ続けている武将ですね。 ・・・と、特に感想が思い浮かばない!(ノ∀`) 何かあったらこっそり加えておきます(笑)