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陳寿評・呉
孫破虜討逆伝 第一
孫堅・孫策
評にいう。
孫堅は、勇猛にして剛毅、貧しく後ろ盾も無い境涯から身を起こして、
張温に董卓を殺すべき事を勧め、あばかれた御陵を埋め戻すなど、立派な忠節の働きがあった。
孫策は優れた気概と実行力とをそなえ、勇猛で鋭敏な事、世に並びなく、非凡な人物を取り立てて用い、
彼が懐く(いだく)大きな豊富は全中国を圧倒するものであった。
しかるに二人は軽佻で性急であったがため、身を亡ぼし事は破れてしまった。
また、呉の国が江東に割拠する体制は、孫策がその基礎を作ったものであった。
しかるに孫権の孫策に対する尊崇は決して十分ではなく、
孫策の息子が侯爵の位しか与えられなかったのは、道義の点で欠けるものであった。
呉主伝 第二
孫権
評にいう。
孫権は、身を低くし辱を忍び、才能ある者に仕事を任せ綿密に計略を練るなど、
越王句践(コウセン)と同様の非凡さを備えた、万人に優れ傑出した人物であった。
さればこそ江表(江南)の地を我が物とし、三国鼎立をなす呉国の基礎を作り上げる事が出来たのである。
ただその性格は疑り深く、容赦なく殺戮を行い、晩年にいたってそれがいよいよ募った。
その結果、讒言が正しい人々の行いをたちきり、後継ぎも廃され殺される事にもなったのである。
子孫達に平安の策を遺して、慎み深く子孫の安全を図った者とは言い難いであろう。
その後代が次第に衰微し、やがては国を亡ぼす事になる。
その遠因が孫権のこうした行いに無かったとは言い切れぬのである。
三嗣主伝 第三
孫亮・孫休・孫皓
評にいう。
孫亮は、年若かったのに良い輔佐の臣を得なかった。
彼が中途で退位させられる事になったのも、必然の成り行きであったのである。
孫休は、かねて目をかけ親しい関係を結んでいるという事で、濮陽興と張布とに政治を任せてしまい、
優れた才能を持つ者を抜擢して、新しい態勢で自分自身の政治を行う事が出来なかった。
(これでは)立派な志操を持ち学問を好んだといっても、国の乱れを救うのに何の役に立ったのであろう。
それに加えて、既に退位させられていた孫亮に無残な死に方をさせたのは、
兄弟に対する思いやりが十分でなかったのである。
孫皓は彼が刑罰を濫用した事により、
命を落としたり配流にされたりした者の数は数え切れぬほどにのぼるであろう。
その為その配下の人々は恐れ憂え、皆その日その日の生命をまっとうせんことのみを願って、
朝には夕方の生死も計りかねるといったありさまであった。
螢惑星や巫祝(かんなぎ)達が様々に兆を示したのは、事態の切迫を伝えんが為であった。
昔舜帝や禹王は、自ら耕作に従事するなど、至聖なる徳をそなえておられたが、
それでも群臣達に向かって「予の違(あやま)てるとき、女(なんじ)ら弼(たす)けよ。」と宣言したり、
正しい言葉を申し述べたものに対しては拝礼をしたりして、
いつも自分の過ちを正すべく最大限の努力をされたのである。
ましてや孫皓は、度し難い悪人で、ほしいままに暴虐をはたらき、真心をもって諌める者は誅殺され、
腹黒いおべっか使いが抜擢され、民衆達を酷使して、淫乱奢侈を極めたのである。
当然、彼を斬首の刑に処して、全ての者に対して謝罪すべきであった。
(しかるに)その死罪を許すとの詔を受け、さらに帰命侯に封ぜられるという優遇が加えられたのは、
天使の広々とした恩徳というよりも、度を過ぎた寵沢であったのではなかろうか。
劉[月缶系]太史慈士燮伝 第四
劉[月缶系]・太史慈・士燮
評にいう。
劉[月缶系]は、立派な行いをなすことにつとめ、物事の善悪を正しく判断する事に意を用いたのであるが、
混乱の時代に、遠く万里の土地にあって自立するといった事は、その長ずるところではなかったのである。
太史慈は、信義を守ることに一身を賭け、古の人々にかわらぬ操行を持した。
士燮は南越の地の太守となり、心のままにその生涯を過したが、その息子の時代になって行いを慎まず、
自分から禍いを招くこととなった。思うに、凡庸な才能しかないのに、
富貴を玩び険阻な地勢を頼みにした事が、そうした結果をもたらしたのである。
妃嬪伝第五
孫堅呉夫人・孫権謝夫人・孫権徐夫人・孫権歩夫人・孫権王夫人 孫権王夫人・孫権潘夫人・孫亮全夫人・孫休朱夫人・孫和可姫伝・孫皓滕夫人
※孫権王夫人は二人います。
評にいう。
「易経」には「家庭を正しく治めれば天下は定まる」といい、
「詩経」には「(文王は)礼法に則ってその妻に接し、
それを兄弟にまで及ぼし、かくて国を治めた」といっているが、その言葉はまったく正しいのである。
遠くは斉の桓公の例を観察し、近くは孫権の場合を詳(つまび)らかにしてみるに、
二人はともに有為の人材を見出す明察と人々に抜きん出た志操とを持っていたのではあるが、
正嫡と庶子とを区別する事が無く、奥向きが混乱して、古今の人々の物笑いの種となり、
後継ぎ達がその禍を被る事となった。
こうした例から考えてみるに、ひたすら道義を心の中心にすえ、
えこひいきをせぬことを旨とするものであってはじめて、このような累を免れる事が出来るのである。
宗室伝第六
孫静・孫賁・孫輔・孫翊・孫匡・孫韶・孫桓
評にいう。
親親という原則は、古今を貫いて不変のものであり、皇族の子弟は国家を守る城壁であるとは、
「詩経」の作者達が称揚するところである。
ましてやここに挙げた呉の皇室の子弟たちは、ある者は国家の基礎を定めるのに力があり、
ある者は国境の地の守りにあたって、その任務を立派に果たしたのであるから、
その栄誉を受けずにいてよいものであろうか。
それゆえ、ここに詳しく記したのである。
張顧諸葛歩伝第七
張昭 顧雍 諸葛瑾 歩隲
評にいう。
張昭は、孫策の遺嘱を受けて孫権の輔佐の任にあたり、
勲功を立派に立てることが出来、真心を持って直言をし、正しい道を守って、
全てにわたり己のためを計ったりする事がなかった。
ただその厳格な態度から孫権に煙たがられ、高く持した行動から疎遠に扱われて、
宰相に任ぜられる事が無かっただけでなく、師保(天子の教育顧問)の役につけられることも無く、
うち長屋で暇がちな晩年をおくった。
張昭に対するこうした処遇から、
孫権が(その人間としての大きさの点で)孫策に及ばなかった事がはっきりとわかるのである。
顧雍は、父祖以来の業績を基礎としながらも、それを智謀によって運用して、
それゆえ栄誉と官位とを極める事が出来た。
諸葛瑾と歩隲とは、
共に人を受け入れる器量と模範となる行動とによって、当時の世の中で有能な人物だとみなされ、
張承と顧邵とは、己を空しくする事の出来る人格者で、有為の人物を見出す事に心を注いだ。
張厳程[門敢]薛伝第八
張紘 厳シュン 程秉 [門敢]沢 薛綜
評にいう。張紘は、その申し述べるところは筋が通り、
その意図するところも正しい道に適っていて、一世の逸材であった。
孫策の彼に対する礼遇が張昭に次ぐものであったのも、確かに理由のある事であったのである。
厳シュン・程秉・[門敢]沢は、(それぞれに)一代に名のある学者であった。
とりわけ、厳シュンが自らの栄達を棄てて旧友を救ったのは、立派な人格者としての風があるではないか。
薛綜は、深い学識をそなえ、主君に対ししばしば諫めを行って、呉の国にとって有益な臣下であった。
周瑜魯粛呂蒙伝第九
周瑜 魯粛 呂蒙
評にいう。
曹公は、漢の丞相という地位を利し、天子を手元に置き、
その威をかりて群雄達の掃蕩につとめていたが、荊州の城を落とすや、
その勢いを借りて東夏(呉)の地に鉾先を向けてきた。
このときにあたり、(呉の朝廷では)意見を申し述べるものたちは、国の前途を危ぶみ、皆確信を失っていた。
周瑜と魯粛とは、そうした中で他人の意見に惑わされる事無く明確な見通しを立て、
人々に抜きん出た存在を示したというのは、まことに非凡な才能によるのである。
呂蒙は、勇敢であると共にちゃんとした策略を立てることが出来、軍略というものがはっきりわかっていた。
[赤β]普を策略で降し、関羽を捕虜にしたことが、彼の手腕がもっともよく発揮された例である。
始めは無思慮な事をなし、みだりに人を殺したりもしたが、やがて自分を抑える事が出来るようになり、
国士(一国を背負って立つ人物)としての器量を備え、単に武将たるだけには留まらなかったのである。
孫権の(彼ら三人に対する)人物論は、その優劣の評価がよく的を射ている。だからここに戴録した。
程黄韓蒋周陳董甘凌徐潘丁伝 第十
程普 黄蓋 韓当 蒋欽 周泰 陳武 董襲 甘寧 凌統 徐盛 潘璋 丁奉
評にいう。
この巻に載せた武将達は、皆江南の勇猛の臣たちであり、孫氏が手厚く遇した者達なのである。
潘璋が行いを慎まなかったときにも、孫権はその過ちを忘れて手柄のみを評価した。
孫氏が東南の地を確保して割拠する事が出来たのも、しかるべき理由があったといえよう。
陳表が、武将の家の庶子の出身でありながら、大家の嫡子や名声ある人々と翼を並べ同様に重きをおかれて、
同輩の中から抜きん出たのは、素晴らしいことではないか。
朱治朱然呂範朱桓伝 第十一
朱治 朱然 呂範 朱桓
評にいう。
朱治と呂範は旧(ふる)くからの臣下として信任を受け、
朱然と朱桓とは勇敢に武勲を立てたことでその名がよく知られ、
呂拠と朱異と施績(朱績)とはそれぞれに軍の指揮者として有能な才を備え、よく父祖以来の業を受け継いだ。
呂範と朱桓とが思い上がって偏狭なところがありながらもその終わりをまっとうできたのに対し、
呂拠と朱異とは、そうした欠点もなかったのに禍を被って(命を落とすことになったのは)、
彼らが生きた時代の間に変化があったからなのだ。
虞陸張駱陸吾朱伝 第十二
虞翻 陸績 張温 駱統 陸瑁 吾粲 朱拠
評にいう。
虞翻は古の狂直(過度なまでに正しいと思うところを貫こうとする)とも言うべき人物であったゆえ、
この末の世にあっては、禍を被る事になるのは不可避であったのではあるが、
そうした彼を十分に受け入れる事が出来なかった孫権にも、
度量の大きさの点で欠けるところがあったのである。
陸績が揚雄の「太玄経」を祖述し発揚したのは、ちょうど仲尼(孔子)における左丘明、
老タン(老子)における荘周(荘子)のような役割を果たしたものであった。
このような貴重な人材を、南越の守りなどにあたらせたのは、立派な人物を害うものではなかったか。
張温は、優れて豊かな才能を備えてはいたが、
身を守るための配慮が周到ではなく、その為禍いを招く事となった。
駱統は、大儀を高く掲げ、言葉は鋭く道理を尽くした意見を述べたのであるが、
孫権という主君の時代にあたったがため、その才能を十分に開花させる事ができずに終わった。
陸瑁は義に篤く主君を諫め正す事につとめ、立派な人物達から称讃を受けた。
吾粲と朱拠とは、困難な時勢の中にあって、正義を守らんが為に身を亡ぼした。悲しい事である。
陸遜伝 第十三
陸遜
評にいう。
劉備は、広く天下に英雄として名があり、当時の人々は皆彼を畏(おそ)れはばかっていた。
陸遜は、ちょうど壮年に達したばかりで、その威名もまだ人々に知られてはいなかったのであるが、
(その彼が劉備の)鉾先を打ちくじいて勝利を収め、全て計略どおりに事が運んだ。
私は、陸遜の計りごとの巧みさを高く評価すると同時に、孫権がよく人の才能を見抜いて、
その人物が大きな事業を成し遂げられるよう取り計らってやった事にも感嘆する。
加えて陸遜の、忠誠の心を尽し、国の事を憂えるあまりその生命を縮めてしまったという生き方は、
立派に社稷の臣と呼びえるものである。
陸抗は、身を正しく持しつつ将来への見通しを持って行動を取り、
父親の遺風をよく受け継いだ。父祖以来の立派な家風を守り、
実際の行動ではいささか先人に劣る点があったとはいえ、
先人以来の基礎の上に見事に仕事を完成させる事が出来た者だといえよう。
呉主五子伝 第十四
孫登 孫慮 孫和 孫覇 孫奮
評にいう。
孫登は、しっかりとした心がけと目標を持っており、豊かで麗しい徳を備えていたと言う事が出来よう。
孫慮と孫和とは、共に優れた資質を備え、自ら修養に努めたのであるが、
一人は短命で早く死に、一人は非業の死を遂げる事となった。哀しい事である。
孫覇は、嫡子でも無いのに嫡子にとって替わろうとし、孫奮はおきての道を守ろうとはせず、
(二人は共に)わざわざ危険な亡びへの道を選んだのである。ただ孫奮が誅殺され、
その一家も皆殺しとなったのは、思いがけないとばっちりの災難を受けたものであった。
賀全呂周鍾離牧伝 第十五
賀斉 全[王宗] 呂岱 周魴 鍾離牧
評にいう。
山越の民達はしばしば反乱を起こし、それを安定させる事は困難でも動揺させるのは容易であった。
この山越の問題がある為に、孫権は外国に対抗するための十分な余力が得られず、
魏の王朝に対して下手に出ることになったのであった。
この巻に挙げた謀臣達は、それぞれにこうした内患をよく処理し、国内の安定に力を尽した者達である。
呂岱は、純粋な誠意を持って公の為に尽し、周魴は優れた策略を用い、
鍾離牧は立派な人物の前例を自らも蹈(ふ)み行った。
全[王宗]には、時代を背負って立つ才能があり、当時、人々から重んじられたのであるが、
息子の悪事を野放しにしたため、譏(そし)りを受け名誉が傷つけられる事になったのである。
潘濬陸凱伝 第十六
潘濬 陸凱
評に言う。
潘濬は、私利を求めず国家の為に尽して大胆に事を行い、
陸凱は、誠心を備え男らしくまっすぐ行動をして、二人とも節操を貫き通し、
大丈夫として最高の仕事を成し遂げた。
陸胤は清らかに身を持して職務を立派に果し、南方の地に名声を上げた。
良き牧民者であったといえよう。
是儀胡綜伝 第十七
是儀 胡綜
評に言う。
是儀・徐詳・胡綜は、ともに孫権の治世にあって国家経営に大きな業績を残した者達である。
是儀は、清潔でつつしみ深い行動を取り、正しい道を守って質素であり、
徐詳はしばしば使者に遣わされてその役目を立派に果し、
胡綜は文才と実務の才とを兼ね備え、それぞれに孫権の信任を受けた。
もし大きな建物に例えるならば、彼らは丁度垂木となって主君を補佐したのである。
呉範劉惇趙達伝 第十八
呉範 劉惇 趙達
評に言う。
これら三人は、それぞれに自己の術に精通し、彼らが巡らせた心の働きは精妙なものであった。
しかし君子たる者がその心を用いるのは、大きく広い物に対してであるべきであって、
それゆえ立派な見識を備えた人々は、神秘的な事柄には心を向けず、現実をもっぱら問題とするのである。
諸葛滕二孫濮陽伝 第十九
諸葛恪 滕胤 孫峻 孫[糸林] 濮陽興
評に言う。
諸葛恪は、才気に溢れ大きな見通しをもって仕事の出来る人物であって、
広く国内の人々の賞賛を受けていた。しかし彼は驕慢で狭量であった。
たとえ周公であっても(そのような欠点があれば)その長所を台無しにしてしまう。
まして諸葛恪の如き人物であれば、尚更の事である。
己を誇って他人を踏みつけにしたのであるから、どうして身を亡ぼさずに済む筈があろう。
もし彼が陸遜や弟の諸葛融に与えた手紙に述べた所を自ら実行していたならば、
後悔をすることにもならず、災禍を被る事も無かったのである。
滕胤は士として節操を積極的に修め、人の世の掟を正しく踏み行った。
しかし孫峻の時代にあっても尚高い地位に留まっていたのであるから、身を危うくしたのも必然の理であった。
孫峻と孫[糸林]とは、悪人ぶりを欲しいままに発揮したのであって、元より取り上げるに足らぬ者達だ。
濮陽興は宰相輔弼の任にありながら、国家経営に心を用いる事無く、
張布の悪行に加担し、万ケの意見を聞き入れたりしたのであるから、
その一族が皆殺しになったのも当然の結果である。
王楼賀韋華伝 第二十
王蕃 楼玄 賀邵 韋曜 華覈
評に言う。
薛瑩は、「王蕃は、その器量の大きさでずば抜けており、博くさまざまな事に通じていた。
楼玄は、節操を清らかに持し、偏るところの無い才能を十分に伸ばした。
賀邵は、常に志を励まして自らを高く持し、重要な職務を立派に取り仕切った。
韋曜は、学問に篤く古を好み、博く種々の書物を読み、立派な文章を著わす才能を備えていた。」と称讃している。
また胡沖は、「楼玄と賀邵と王蕃とは、当時の最も優れた人物達であって、ほとんど優劣はつげがたい。
もしどうしても優劣をつけねばならぬとならば、楼玄を先にし、賀邵をこれに次ぐ者とすべきであろう。
華覈は、その文学的な才能では韋曜をしのいだが、公式の文章については彼に及ばなかった」と述べている。
私が観てみるに、華覈は、しばしば優れた建議をこなし、
自分の能力いっぱいに仕事をしようと心がけていて、忠臣と呼ぶにふさわしいであろう。
ただこれら幾人かの人々は、禍福常に無き時代に身を処して、
高い名声と地位を有したのであるから、非業の死を遂げる事になっても何の不思議も無く、
それを免れえた者があったのは僥倖であったにすぎないのである。