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張楽于張徐伝 第十七
于禁
厳しい軍律
字は文則。
黄巾の乱の時、鮑信が兵を集めると于禁はそれに従った。 曹操がエン州を治めることになると、于禁は仲間と共に出頭し、都伯(隊長)となり王朗に所属した。 王朗は于禁を高く評価して、大将軍を任せられると推薦した。 曹操は引見して于禁と話しをし、軍司馬に任命して、徐州に行かせて広威を攻撃させた。
濮陽の呂布討伐は別軍として、二陣営を打ち破った。 寿張・定陶・離狐の攻撃、擁丘における張超包囲に参加し、全て打ち破った。 黄巾の劉辟らの征討に参加し、敵の将が曹操の軍営に夜襲をかけてきたが、 于禁は直属の兵を指揮して攻撃し、 将を討ち取り、その軍勢を全て降伏させた。 苦における橋ズイ包囲に参加し、橋ズイら四将軍を全て斬った。
張繍が反乱を起こすと、曹操は戦って形勢不利で軍は敗北した。 軍は混乱し、皆曹操を探したが、于禁だけは部下数百人を指揮し、戦いつつ引き上げた。 死傷者はあったけれども、離散する者はいなかった。 敵の追撃が次第にゆるくなると、于禁は隊列を整え、太鼓を鳴らして帰還した。 曹操の元へつかないうちに、道中で傷を受け裸で逃げる十余人の兵士に出会った。 于禁がその理由を訊ねると、「青州の兵(※元は黄巾賊)に略奪を受けました。」と言った。
曹操は青州兵を寛大に扱ったため、それにつけこんで平気で略奪を行ったのである。 于禁は腹を立て、部下達に命令した。 「青州の兵は曹公の部下でありながらまた悪事を働くのか。」 そこで彼らを討伐し、罪を責めたてた。青州兵はあわてて曹操の元に逃げて訴えた。 于禁は曹操の所に到着するとまず陣営を設け、すぐには曹操に謁見しなかった。
ある人が于禁に向かって、 「青州兵は既に君を訴えておりますぞ。 すぐに公(曹操)のもとに行ってこの事をはっきりさせなければなりません。」
于禁は「今、賊軍が背後に居る。追撃が来るのも間もないだろう。 まず備えを立てなければ、どうやって敵に対処するのだ。 それに公は聡明であられる。 でたらめの訴えが何の役に立つ。」 そう言って塹壕を掘り陣営をしきおわると、やっと入って謁見した。 詳しくその実情を説明し、曹操は喜んで于禁に向かって言った。
「イク水における苦難は、わしにとってそれこそ危急の状態だった。 将軍派混乱にありながらよく乱れず、暴虐を討ち、砦を固めた。 動かすべからざる節義を具えているといってよかろう。古代の名将であっても、これ以上であろうか。」 張繍征討や、呂布征討に参加した。 別軍として曹仁らと[目圭]固を攻撃し、打ち破って斬った。
曹操が初めて袁紹を征討したとき、于禁は先陣を引き受けた。 曹操はその意気をかって、歩兵二千人を于禁に指揮させた。 劉備が徐州で反逆すると曹操は征討のため東に向かった。 袁紹は于禁を攻撃したが、于禁は固守し、袁紹は陥落させる事が出来なかった。
今度は楽進らと歩兵・騎兵あわせて五千を指揮し、袁紹の別の陣営を攻撃した。 西南に向かい、黄河に沿って三十余個所の守備地を焼き払った。 斬った首の数と捕虜の数がそれぞれ数千、袁紹の将軍二十余人を降伏させた。
昌キがまたも反逆したので、于禁に彼を討伐させた。 于禁は急いで進軍して昌キを攻撃した。 昌キは于禁と旧知の間柄だったので、于禁のもとに降伏した。 諸将は皆、昌キが降伏したのだから、曹操のもとへ送るべきだと言った。
しかし、于禁は「諸君は公の常令を知らぬのか。包囲されてのちに降伏したものは赦さないとある。 そもそも法律を奉じ命令を実行するのは、上に仕える者の守るべき節義である。 昌キは旧友ではあるが、私は節義を失ってよいものか。」 自身出向いて昌キに別れを告げ、涙を落としながら彼を斬った。〔1〕
これを聞いた曹操は「昌キが降伏するときもわしのもとに来ず于禁を頼ったのは運命ではなかろうか。」 さらに于禁を重んじた。
臧覇らと梅成を攻撃した。張遼・張[合β]らは陳蘭を征討した。 于禁が到着すると、梅成は降伏した。降伏してから再び背き、その軍勢は陳蘭のもとに走った。 張遼らは陳蘭と対峙したが兵糧が少なかったので、 于禁が兵糧輸送の部隊にまわり、兵糧を絶やす事はなかった。
于禁は張遼・楽進・張[合β]・徐晃と共に名将であり、 曹操が征伐するごとに、皆かわるがわる起用された。 于禁は軍を保持する態度は厳格できっちりしており、 賊の財産を手に入れても個人の懐に入れることはなかった。 このため賞賜は特に手厚かった。 しかし、法律によって下を統御したからあまり兵士や民衆の心をつかめなかった。
曹操はいつも朱霊をにくんでおり、その軍営をとりあげたいと思っていた。 于禁が威厳があってはばかられていることから、于禁に命令書を持って行かせた。 まっすぐに朱霊の軍営に赴きその軍営を取り上げたが朱霊は抵抗しなかった。 そこで朱霊を于禁の一指揮官とした。
厳しい評価を与えられた晩年
219年、于禁は関羽に攻撃されている曹仁を助けにいった。 秋に長雨が降り、漢水があふれ、于禁ら七軍は皆、水没した。 于禁は諸将と高地に登って水をながめたが、回避する場所は無かった。 関羽は大船に乗ってやってきて攻撃し、于禁は結局降伏したが、[广龍]徳は忠節を曲げずに死んだ。
曹操はそれを聞くと長く哀しみの歎息をもらして言った。 「わしが于禁を知ってから三十年になる。危機を前にして困難にあって、 かえって[广龍]徳に及ばなかったとは思いもよらなかった。」
関羽が孫権に捕らえられたので于禁は呉に住むこととなった。 曹丕が帝位につくと、孫権は于禁を帰国させた。 曹丕が于禁を引見すると、鬚も髪も真っ白で、 顔形はげっそりやつれ、 涙を流し頭を地にうちつけて辞儀をした。 曹丕は過去の故事を引き合いに出し、慰め諭し、安遠将軍に任命した。
呉に使者として派遣するつもりで、先に北方のギョウに行って曹操の墓を参拝させた。 その御陵の建物に、曹丕はあらかじめ、関羽が戦いに勝ち、 [广龍]徳が憤怒しており、于禁が降伏しているさまを絵にかかせておいた。 于禁はそれを見ると面目なさと腹立ちのため、病気にかかり逝去した。
諡は詞という。
裴松之の注
〔1〕臣(わたくし)裴松之が考えるに、 包囲されてのちに降伏した場合、 法律からいって赦されないけれども、 囚人としてそれを護送するのは、命令に違反した事にはならない。 于禁は旧友のために万一の幸運を期待する事はまったくせず、 その殺害を心のままにふるまい、 人々の意見に逆らった。
最期に降伏者となり、死んでからは悪い諡を与えられたのは当然であろう。
私的感想
魏五名将の一人です。 最近は評価が見直されてきてるのかな?と思います。 光栄の三國志シリーズを見ると(笑)
この人は最期でとにかく評価の分かれる人物。 見たとおり、潔く死ぬべきか、恥を抱えながらも生きながら戦功を上げるべきか。 ただ、現代は「生きる」事が重要視されていますが、昔はそういう風潮はあまりないし、 むしろ戦場で死んで後世に名を残す事がよしともされていました。 そして新参者の[广龍]徳は降伏せず、打ち首されました。 その事もあって于禁は際立ってしまいますね。
最期を見ると鬚などまっしろで痩せて、涙を流しながら地に頭をつけたとあります。 これが実際かどうかは当然現代にいきる僕らが知る由もありませんが、 本人もそこで死ななかった事によって、かなりの苦痛を味わったでしょう。 最期がよくない武将は他にもいますしね、孫権や関羽もそうです。
ただ陳寿の評は厳しいものであり、裴松之も悪い諡を「当然」と言い切ってます。