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張楽于張徐伝 第十七

張遼

張遼 楽進 于禁 張[合β] 徐晃

主が変わり続けた前半

字は文遠。

本来聶壱(漢代に匈奴との交易を利用して匈奴を騙して陥れようとした男)の子孫であるが、 復讐を避けるために姓を変えたのである。 丁原は張遼の武力が人並み外れていたことから召しだして兵を引き連れて都に赴かせた。 何進によって河北に派遣されて兵を募集し、千余人を手にいれ、 帰還したが既に董卓が都を支配していたので彼の配下となった。 しかし、董卓が死に、呂布の部下となり、その呂布も曹操に敗れると曹操の配下となった。

度々戦功を立て、裨将軍となった。 袁紹が敗れたとき、曹操は別軍として張遼を派遣して魯国を平定させた。 夏侯淵と共に昌キを東海に包囲したが、数ヶ月経過し兵糧が尽きたので、軍を引き上げ帰還することが論議された。 張遼は夏侯淵に向かって言った、

「数日来、包囲陣を巡行するたびに、 昌キはいつも私をじっと見つめている上に、矢を射ることも稀になっています。 これはきっと彼の考えがぐらついており、そのために力の限り戦わないのです。 私はうまく気をひいて彼と話をしてみたいと存じます。 あるいは味方に引き入れることが出来るかもしれません。」

そこで使者をやって昌キに向かっていわせた、 「公(曹操)からご命令がございまして、張遼にそれを伝えよとのことです。 」 昌キは下に降りてきて、張遼と語り合った。 そして張遼は説得し、昌キはそこで降伏を認めた。

後に、曹操は張遼を咎めていった、「これは大将のやり方ではないぞ。」張遼はあやまった。

袁譚・袁尚討伐に参加し功績を立て、行中堅将軍となった。 ギョウにおける袁尚攻撃に参加した。 袁尚は固守してくだらなかった。 張遼と楽進が陰安をおとし、住民を河南に移住させた。 またもギョウ攻撃に参加し、ギョウが敗れると張遼は別軍を連れて趙国をと常山を攻めおとし、 山沿いの賊らをさそって降伏させた。

袁譚の攻撃に参加し、袁譚が敗れると、別軍として海岸地帯を攻略し、遼東の賊をうち破った。 ギョウに帰還すると曹操は自身で張遼を出迎え、手を引いて一緒に車にのせ、 張遼を盪寇将軍に任命した。さらに別軍として、荊州を攻撃し、江夏の諸県を平定し、 帰還し都亭侯にとりたてられた。

柳城における袁尚征討に参加したが、突然蛮軍と遭遇した。 張遼は曹操に戦いをすすめ、意気はなはだ盛んであった。 曹操はそれを見事と感じ、持っていた指揮の旗をみずから張遼に授けた。 かくて、攻撃し散々に打ち破り、単于トウ頓の首を斬った。

当時、荊州はまだ平定されてなかったので張遼を派遣して長社に駐屯させた。 出発に際して郡中に反乱を計画したものがいて、夜間騒ぎ立てて火を放ったので、軍全体が混乱した。 しかし、張遼は側にいる者に向かっていった、

「動くでないぞ、これは陣営全体が反乱を起こしたのではない。 必ず異変を引き起こしたものがあり、人を動揺させようとしているだけじゃ。」 そこで軍中に反乱と関係ない者は落ち着いて坐っていよと命令した。 張遼は新鋭兵数十人を率い、陣営の真ん中に突っ立った。 しばらくして落ち着くとすぐに首謀者を捕まえ殺した。

陳蘭と梅成がテイ族の居住地六県をもって反逆した。 曹操は于禁・臧霸らを派遣して梅成を討伐させ、張遼には張コウらを指揮して陳蘭を討伐させた。 梅成が表向き于禁に降伏したので于禁は帰還した。 しかし梅成はそのまま軍勢を引き連れて陳蘭と合流した。

陳蘭らは高く険しい山の上に砦を築いた。張遼が進もうとすると将軍達は言った、 「兵は少なく道は危険です。深く侵入する事は困難です。」 張遼、「これは『一対一の闘い』という奴じゃ。勇者は進む事ができるはず。」 かくて進んで山の下につき陣営をおき、彼らを攻撃して陳蘭・梅成の首を斬りその軍勢を全て捕虜にした。

合肥での死闘

曹操は孫権征討から帰還した後、張遼に命じて楽進・李典らと共に七千余人を率いて合肥に駐屯させた。 曹操は張魯征討に向かったが、護軍に命令書を与え、箱のふちに「賊が来れば開け」と記しておいた。 急に孫権が十万の軍勢をひきいて合肥を包囲した。

そこで一緒に命令書を開くと、 「もし孫権が来れば、張遼・李典の将軍は城を出て戦え。 楽進将軍は護軍を守り、彼らと戦う事はならぬぞ」とあった。

将軍達は皆ためらったが、張遼は言った、

「公は遠征で外におられる。救援が着く頃には、やつらは我が軍を打ち破っている事間違いない。 だからこそ奴らの包囲網が完成しないうちに迎え撃ち、 その盛んな勢力をくじいて人々の心を落ち着かせ、 その後で守備すべきだと指示されたのだ。 成功失敗のきっかけはこの一戦にかかっている。 諸君は何をためらっているのだ。」

李典もまた張遼に賛成した。

そこで張遼は夜間つき従ってくる勇気のある兵士を募り、八百人を手に入れ、 牛をぶち殺し将兵をねぎらい、 翌日大合戦を行う事にした。

夜が明けると、張遼は鎧をつけ、戟をもち、先頭になって敵陣を落としいれ、 数十人を殺し、2人の将を斬り、大声で我が名をよばわりつつ砦を突き破って侵入し、 孫権の将旗の元まで来た。孫権は仰天し、人々はどうしてよいかわからなかった。

孫権は逃げて小高い丘に登り、長い戟を使って身を守った。 張遼は孫権に降りて戦えと怒鳴ったが、 孫権はあえて動こうとせず、張遼の率いる軍勢が少ないのを望見した。

そこで兵を集結させて張遼を幾重にもとりまいた。 張遼は右に左に押し寄せる敵を追い払い、まっしぐらに進んで激しく攻撃すると、囲みが解けた。 張遼は部下数十人を引き連れて脱出できた。

残りの兵たちは「将軍、私たちを見捨てるのですか。」と叫んだ。 張遼は再び引き返して囲みを突き破り、残りの兵士を救い出した。 孫権の兵馬は皆道を開け、思い切ってぶつかる者もなかった。 明け方から戦って真昼になると、呉の人々は戦意を失ったので、張遼は引き返して守備を固めた。

人々の心はやっと落ち着き、将軍達は皆感服した。 孫権は合肥を十余日の間とりまいていたが、城をおとす事ができず、引き退いた。 張遼は諸軍を率い追撃し、ほとんどもう孫権を捕らえるところだった。 曹操は張遼を勇敢だと非常に感心し、征東将軍に任命した。

216年、曹操はまたも孫権を征討し、合肥に到着すると、張遼の戦った場所を巡り歩き、長い間感歎していた。 そこで張遼の兵を増加し、諸軍を多く留め、居巣に駐屯地を移させた。

関羽が曹仁を樊に包囲したとき、ちょうど孫権が藩国の礼をとったので、 張遼と諸軍を全て召喚して曹仁の救出に向かわせた。 張遼がまだ到着しないうちに徐晃が既に関羽を破り、曹仁の包囲は解けていた。 張遼の軍が到着すると曹操は輦(てぐるま)に乗ってその軍をねぎらった。 帰って陳郡に駐屯した。

曹操が死に曹丕が王位につくと、前将軍に転任させた。 孫権がまた反逆すると張遼を合肥に帰して駐屯させ、張遼の爵位を都郷侯に昇進させた。

張遼の母に車を支給し、さらに兵馬をつけて張遼の家族を駐屯地まで護送させ、 張遼の母が到着するときには先導と扈従に出迎える事を命じた。 指揮下にある諸軍の将校官吏は皆、道の両側に並んで挨拶した。

見物の者はそのことを栄誉と讃えた。曹丕は帝位につくと晋陽侯にとりたて、 千戸を加増し、 前と合計して二千六百戸とした。

221年、張遼は洛陽宮に参内した。 曹丕は張遼を建始殿に案内させて引見し、親しく呉を打ち破った時の状況について訊ねた。 曹丕は感歎して側近の者を振り返って言った、「彼は古代の名将である。」

彼のために邸宅を建ててやり、また特に張遼の母のために御殿を作ってやった。 張遼に従い募集に応じて呉軍を破った歩兵達を全て虎賁(近衛兵)とした。 孫権が再び藩国の礼をとった。 張遼は帰って雍丘に駐屯したが、病気にかかった。

曹丕は侍中の劉曄に命じ太医(御医)をつれて見舞いに行かせた。 元部下だった虎賁たちは様子を訊ねる為、道路にひきもきらなかった。 病気がまだ癒えない時に、曹丕は張遼を迎えにやり安在所に連れてこさせ、 御車にて親しく見舞い、その手をとり、御衣を賜った。 太官(天子の食事係)が毎日天子の食膳を送った。 病気が少し治ると駐屯地に帰った。

孫権が再び反逆すると、曹丕は長江を臨む場所に駐屯する事を命じた。 孫権は非常に彼を恐れ、諸将に「張遼は病気だとはいえ、敵対してはいかんぞ、気をつけろよ。」と命じた。

この年、張遼は孫権の将・呂範を撃破したが、張遼の病気は重くなり、そのまま江都で逝去した。 曹丕は彼のために涙を流した。

剛侯と諡された。

私的感想

魏随一の名将でしょう。 何と言っても見せ場は八百人で十万の軍に勝利し、合肥を守り通したところです。 その際の戦闘の描写は細かく、張遼の声が届く場所まで孫権に迫っていたようです。 「張遼来る!」孫権が勝てなかった男、そして呉の人々を恐怖に陥れた男。

しかしそんな彼も李典や楽進とは仲が悪かったようです。 彼自身の性格に問題があったとも聞きますが、どうなのでしょう? 因みに彼の「遼」の字はシンニョウの点が二つっぽいです。