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后妃伝 第五

甄夫人

卞皇后 甄皇后 郭皇后 毛皇后 郭皇后

曹丕に左右された人生

明帝(曹叡)の母。

家は代々二千石の官吏であった。 甄后は3歳で父と死に別れた。

後年天下に戦乱が起こり、その上飢饉が加わった為に、民衆は皆宝を売りに出した。 当時甄后の家には穀物のたくわえが一杯あった為にこれらをかなり買い込んだ。

(その時)甄后は10余歳であったが、母に告げて 「今、世の中が乱れているのに、家では宝物をたくさん買い込んでいます。 罪とがの無い一人の男も、宝玉を抱いていれば、罪を負わされ(て身を滅ぼす元にな)るとか。 また周りの者が皆飢えに苦しんでいるのですから、親類や近所の方々に穀物を振舞って差し上げ、 広く恩恵を施すに越した事はございません。」

と、 言うと家中の者がその通りだと言い、即座に彼女の言葉に従った。〔2〕

袁紹が次男の袁煕の為に彼女を読めとして迎え入れた。 袁煕が地方に出て幽州刺史となると、甄后は後に残って姑の世話をした。 冀州が平定されると、文帝(曹丕)は袁紹の本拠地ギョウにおいて甄后を迎え入れて寵愛し、 明帝と東郷公主をもうけた。

220年文帝は王位につき南方征伐に向かったが、甄后はギョウに残って留守をつとめた。

10月文帝は帝位についた。

文帝が帝位に登った後、山陽公(献帝)が二人の娘を魏王朝の側室として捧げ、 郭皇后・李貴人・陰貴人らも揃って寵愛を受けたため、甄后はますます失意に陥って、怨み言を言った。 文帝は非常に腹を立て、221年6月使者を遣わして自殺させ、ギョウに埋葬した。

裴松之の注

「魏書」にいう。

文帝(曹丕)がギョウに乗り込んだとき、袁紹の妻と甄后が居た。 甄后は恐怖に駆られて、劉夫人(袁紹の妻)の膝の上に顔を伏せた。

「世語」にいう。

文帝が劉夫人に後ろに居る女性(甄后)を誰かと尋ねると、曰く「彼女は袁煕の妻女です。」と言った。 手ぬぐいで甄后の顔をぬぐうとかなりの美貌であった。

「魏書」にいう。

甄后は文帝からの寵愛が深まれば深まるほど自制して控えめな態度だった。 後宮の女官のうち、寵愛を受けてる者に対しては(ますます寵愛を受けるよう)努力させ、 受けていない者に対しては慰め、忠告してやった。

文帝が(側室の)任氏を追い出そうとした時、甄后は涙を流して追放しないよう強く頼み込んだが、 聞き入られなかった。

211年7月、武帝の関中征伐に卞夫人がお供をした。

当時卞夫人は体調が悪かったのに、甄后は見舞う事が出来ず、一日中心配していた。 側仕えのものが何度も快癒の知らせを伝えても、甄后は信用せず、

「お母様は家においでのときも、持病を起こされると、(快癒まで)長い時間がかかりました。 今病気が治るなんて早すぎるではありませんか。これは、私の心を慰めようとしているだけです。」 と、言い心配は強まった。

後に、卞夫人から病気はもう治ったという返事が届き、やっと甄后は喜びに浸った。

武帝が関中征伐から帰還して甄后は卞夫人に目通りをしたが、 以前の事を思い出し、 悲喜こもごもの有様で、側仕えの者を感動させた。

卞夫人のほうでも甄后のこんな様子を見ると、涙しつつ、彼女に向かって、 「あなたは私がこの間の病気のときも、苦しんだと思っていたの。 あの時はちょっと具合が悪かっただけなのですよ。 十日あまりですぐに治りました。私の顔色を御覧なさい。」と言い、

「この人は本当に孝行な嫁です。」と感嘆した。

216年、武帝が東方征伐に赴いた際、文帝、及び明帝(曹叡)らは皆お供をした。

が、甄后は病気の為、ギョウに留まった。 217年、大軍が帰還すると、卞夫人の側仕えの者達は甄后の顔色が豊かに張り切っているのを見て、 不審に思い、

「皇后様は長い間二人の御子と離れておられました。 下々の人間の感情を念頭においてはいけませんが、 しかし、皇后様がいっそう元気なのはどうしてでしょう?」と、尋ねると、

甄后は「叡(明帝)達はお母様についていっているのですから、 私に何の心配することがありましょう。」と答えた。

以下は后妃伝の郭夫人からの抜粋

「魏略」にいう。

明帝は即位した後、母の甄后が既にこの世にいない事を思い起こして悲しみ、 そのために郭夫人は憂慮して突然崩御したのである。

甄后は死に際して、明帝の事を李夫人に託していった。

郭夫人が崩御すると、李夫人は始めて甄后が讒言によって災禍にあい、 遺体を柩に収める儀式を受ける事が出来ず、振り乱した髪が顔にかぶさっていた、と語った。

明帝は悲しみ嘆いて涙を流し、郭夫人のかりもがりと埋葬にあたって、全て甄后の時の通りに行うよう命じた。

「漢晋春秋」にいう。

甄后が誅殺されたのは、郭夫人への寵愛が原因であった。 甄后のかりもがりの時は、振り乱した髪で顔を覆わせ、ぬかを口に詰め込ませた。

かくして郭夫人を皇后に立て、明帝を養育させたのだった。 明帝はこの事を知ると心にいつも怒りを抱き、しばしば涙ながらに甄后の死んだ時の状況を尋ねた。

郭夫人は、「先帝(曹丕)がご自身で殺害なさったのに、どうして私を詰問なさるのですか。 それに、お前は子供でありながら死んだ父を仇扱いにし、 先の母の為に後の母を罪も無いのに殺していいものでしょうか。」と言った。

明帝は立腹し、かくして郭夫人を脅して殺害し、かりもがりを行う者に甄后の時の例にならえと命じた。

私的感想

女性の列伝第二号です。

この人の人生は曹丕に好き勝手にされてしまいましたね。当時の女性は大体そうかも知れませんが・・・。 特に死に際しては酷いものがあります。曹叡は相当郭夫人を恨んでたようです。

女性は基本的に本伝より、注釈の方が長い。男尊女卑の時代で、何よりも女性には基本的に名前はありません。 孫尚香こと孫夫人は後で付けられた名前ですし、祝融に至っては架空の人物とされています。

女性が「一個人」として認められる様になるのはまだまだ後だったのかもしれません。 そんな事より・・・今年初めての三國志更新だ_| ̄|○