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諸夏侯曹伝第九

夏侯淵

夏侯惇 夏侯淵 曹仁 曹洪 曹休 曹真

意外な一面

字は妙才、夏侯惇の従弟。

曹操が故郷にいた頃罪を犯したことがあった。 その罪を夏侯淵は身代わりとなって引き受けたが、曹操が夏侯淵を上手く助けて助かる事が出来た。

急襲を得意とした戦歴

袁紹が敗北したあと、エン州、豫州、徐州の兵糧を取り仕切らせた。

当時、軍には食料が乏しかったが、夏侯淵が絶えることなく輸送したため勢いをもりかえした。 晶キが謀叛を起こした時、于禁を派遣したが落とせなかったので夏侯淵を派遣した。 協力して攻め、十あまりの屯営を攻め下し、晶キは于禁の元に降伏してきた。

黄巾賊の徐和・司馬倶らが白を攻撃し、県の高官を殺害した。 夏侯淵は軍を率いて、これを攻撃し散々に打ち破った。 徐和を切り殺し、諸県を平定し、その食料を没収して兵士に給付した。

209年反乱者雷諸を攻撃し、打ち破り、徐晃を指揮させ、賊徒を攻撃させた。 徐晃は二十あまりの屯営を攻め落とし、賊の頭目を斬り制圧した。 その後韓遂らの征伐に随行し、交戦した。 また朱霊を指揮してテイ族を平定した。 曹操と安定の地で合流し、楊秋を降伏させた。 夏侯淵は長安に駐屯し、賊の劉雄を撃破し降伏させた。

韓遂らの残党梁興を包囲し、攻め落とし、斬った。 夏侯淵は馬超が涼州を攻撃し救援に向かったが敗北し、さらにテイ族が反乱を起こしたため帰還した。 ある者が馬超を討ち取ろうと考え、彼を騙して馬超は妻子を殺害された後漢中に逃亡し、 また戻ってきてキ山を包囲した。

救援要請が夏侯淵の元に届いて諸将は曹操の指揮を待とうと言ったら夏侯淵は 「太祖(曹操)は遠くにおいでであり、 ご返事を頂く頃には敗北しているはず、危急を救う事にはならぬぞ。」と、言い出陣した。

張合「β」に5千の兵を指揮させ、夏侯淵自身は兵糧などを監督して後詰とした。 まだ交戦しないうちに馬超が闘争したので、張合「β」は進撃して馬超軍の大型武器を没収した。 夏侯淵が到着する頃にはすでに戦闘が終わった後だった。

そして夏侯淵が韓遂を襲撃・攻略しようとしたところ、韓遂は逃走した。 夏侯淵は韓遂の兵糧を手に入れ、追撃した。 二十里あまりのところまで来て、諸将は韓遂を攻撃し、さらにテイ族を攻撃すべきだと主張。

しかし夏侯淵は韓遂の兵は精鋭だし、テイ族の城も堅固だから陥落させられないだろうと考え、 遠くにいる諸部族を討伐する方が良いと判断。

遠くにいる諸部族の多くが、韓遂の部隊に参加しており、引き返して家族を救うに違いない。 さらに韓遂が見捨てて留まるなら孤立する事になる、 そしてこちらに来るならば遥か遠いところまで来て疲れるに違いない、 それを攻撃すれば韓遂を生け捕れる、と考えた。

夏侯淵は軽装の兵を指揮し、諸部族の多くを捕虜にしたり、斬り殺したりした。 韓遂は予想通り、長い距離を救援に赴き夏侯淵と対峙した。

夏侯淵の諸将は韓遂の軍があまりにも多いのにゾッとし、陣営を築いて韓遂と対峙したいと考えた。 しかし夏侯淵は彼らは長旅で疲れている、長くは持たないだろうと言い、 鼓舞して大いに韓遂軍を打ち破り、旗印を奪い取った。

それより以前、宋建が王を自称していた。 曹操は夏侯淵に諸将を統率させ、討伐に向かわせた。 たった一ヶ月でこれを陥落させ、宋建と側近を斬り殺した。

さらに張合「β」を派遣して河関を平定させた。その辺りにいる諸部族はことごとく降伏した。

216年夏侯淵の封邑を三百戸加増し、合計八百戸となった。

曹操が張魯討伐に向かった時合流した。 曹操は羌族を引見する時、いつも夏侯淵を脅しに使った。 折りしも張魯が降伏して、漢中が平定されたので、張合「β」・徐晃を指揮させ、巴軍群を平定させた。

夏侯淵を漢中の守備に残した。

218年劉備が進行して来て睨み合いは1年以上になった。 219年劉備は夜中に夏侯淵の陣営に火を放った。 夏侯淵は張合「β」に東の囲いを守らせ、自分は軽装の兵士を引き連れ南の囲いを守った。

劉備は張合「β」に挑戦し張合「β」は負け戦となった。

夏侯淵は、自分の率いる兵士の半分を分けて張合「β」の助勢にあたらせたところ、劉備に襲撃された。 夏侯淵は劉備の将黄忠に討たれ戦死した。

それより以前夏侯淵はしばしば戦勝を収めはしたものの、曹操はいつも戒めていた。

「指揮官たるもの、臆病な時もなければならない。 勇気だけを頼みにしてはなるまいぞ。 指揮官は当然勇気を基本とすべきだが、行動に移す時は知略を用いよ。 勇気にまかせる事しか知らないならば、一人の男の相手にしかなれぬぞ。」と。

夏侯淵の妻は曹操の妻の妹であった。

裴松之の注

「魏略」にいう。

当時エン州・豫州は大混乱に陥っていた。 夏侯淵は饑餓状態の中で、自分の幼い子を棄て、死んだ弟の娘を救った。

[魏書]にいう。

夏侯淵は、武将としては急襲を得意とし、いつも敵の不意をついたため、軍中では、 「典軍校尉の夏侯淵、三日で五百里、六日で千里」と語り合っていた。

私的感想

この人も夏侯惇と同様正史と演義では結構違います。 しかし夏侯惇と違って素晴らしい活躍が目立ちます。

劉備に小物呼ばわりされた夏侯淵ですが名将であった事は間違いないでしょう。 正史だけ読むと夏侯惇より凄く見えてしまいますね。