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鍾ヨウ華[音欠]王朗伝 第十三

華キン

鍾ヨウ 華キン 王朗

華キンの一生

字は子魚。

高唐は斉の地方の名高い都市であったから、盛り場を遊び歩かない官吏は無かった。 華[音欠]は役人となったが、休日に役所を退出すると家に帰って門を閉ざした。 議論は公平さを保って絶対に他人を傷つけなかった。

同郡の陶丘洪(とうきゅうこう)も名を知られた人で、自分では華[音欠]以上の見識があると思っていた。 当時、王芬(おうふん)が勢力家達と霊帝廃位を計画した。 事は「武帝紀」に記されている。

王芬は密かに華[音欠]と陶丘洪を呼び寄せて一緒に計画を立てようとした。 陶丘洪が出かけようとしたとき、華[音欠]は彼を引き止めていった、

「そもそも(天子の)廃立は重大だ。王芬は大雑把な性格で武勇が無い。 これはきっと成功せず、災難が一族にまで降りかかろう。子(きみ)よ、行ってはなりませんぞ。」

陶丘洪は華[音欠]の忠告に従って取りやめた。後に王芬はやはり失敗した。陶丘洪はやっと恐れ入った。

孝廉に推挙され、朗中に任命されたが、病気のため辞職した。

霊帝が崩御し、何進が政治を輔佐すると、河南の鄭泰(ていたい)、 頴川のの荀攸、それに華[音欠]らを召しだした。華[音欠]は都に赴き、尚書朗となった。

董卓が天子を長安に移すと、華[音欠]は地方に出て下ケイの県令になりたいと願い出たが、 病気で(任地に)行けなかった。結局、藍田(らんでん)を通って南陽へと行った。

当時、袁術は穣にいたが、華[音欠]を引き止めた。 華[音欠]は軍を進めて董卓を討伐するよう袁術に進言したが、袁術は採用することが出来なかった。 華[音欠]は見切りをつけて去ろうと考えた。

丁度、その時、天子は関東(函谷関以東)を安定させるため、 体傅の馬日テイを派遣した。 馬日テイは華[音欠]を召しだして掾とした。 東に向かって徐州まで来ると、詔勅を受けてその場で華[音欠]を豫州の太守に任命した。 (華[音欠]の)行政はすっきりと落ち着いており煩雑でなかった事から、官民はありがたがり彼を愛した。

孫策が江東の地を攻略した。 華[音欠]は孫策の用兵の上手さを知らされたので(隠士のかぶる)頭巾を被って泰迎した。 孫策は彼が長者(徳の人)であることから、上客に対する礼を持って待遇した。

のちに、孫策が死ぬと、太祖は官渡にいたが、華[音欠]を召しだすようにと天子に上奏した。

孫権は行かせまいと思ったが、華[音欠]は孫権に向かって述べた、 「将軍は王命をかしこみ、曹公とよしみを通じたばかりで、互いの交情もまだ固まっておりません。 僕(やつがれ)が将軍の為に心を尽せるようにしてくだされば、有益かと思います。 今空しく僕を引き止めておられますが、それは役に立たぬ物を養っている事で、 将軍にとって良計ではありますまい。」孫権は喜び、やっと華[音欠]を行かせた。

彼を見送る賓客・旧友達は千余人、餞別は数百金にのぼった。 華[音欠]は全て拒絶する事無く受け取ったが、密かにそれぞれ印をつけておいた。 出発の時になって、贈られた物を全部集め、賓客達に向かっていった。

「元々諸君の気持ちを拒みたくなかったので、受け取った物が結局多くなった。 一台の車で遠く旅することを思うと、財宝を持っている事が災難となるかもしれない。 どうか客人にはその事をお考え下さい。」人々はそれぞれ贈った物を引き取り、彼の徳義に感服した。

華[音欠]は到着すると議朗に任命され、司空の軍事に参与した。 中央に入って、尚書となり、 侍中に転任し、荀ケに代わって尚書令となった。 太祖は孫権を征討したとき、華[音欠]を軍師として申請した。

魏国が建国された後、御史太夫となった。文帝が王位につくと、相国に任命され、安楽郷侯に封じられた。 (文帝が)天子の位に登ると、位を改められ司徒となった。〔1〕

華[音欠]は平素から清貧に甘んじ、俸禄と下賜品は親戚旧知にふるまってやり、 家にはわずかの蓄えもなかった。

公卿(高官)達皆に官有の女奴隷(犯罪人の家族)を賜った事があったが、 華[音欠]だけは彼女らを解放して嫁にやった。

帝は感嘆し詔勅を下した、 「司徒は国の元老であり、関与する役目は陰陽を調和し、あらゆる事を取りさばく事である。 今、太官(食事係)がご馳走を並べているのに、司徒が粗食を取っているのは、甚だいわれの無いことである。」 特に御衣を賜り、さらにその妻子や一族の男女全員の為に衣服を作ってやった。

黄初年間、公卿(大臣・高官)に詔勅を下して独行の君子を推挙させた。 華[音欠]は管寧を推挙し、帝は安車を用意して彼を召しだした。 明帝(曹叡)が即位すると、 昇進して博平侯に奉じられ、 五百戸を加増、以前のと合計して千三百戸となり、大尉に転任した。

華[音欠]は病気を理由に辞退し、管寧に地位を譲りたいと願い出たが、帝は許可しなかった。 大会議を開くに際して、繆襲を派遣し、詔勅を下した。 華[音欠]は仕方なしに、やっと立ち上がった。

231年、華[音欠]は逝去した。〔2〕

裴松之の注

〔1〕 華キョウ(華[音欠]の次男)の「譜叙」にいう。

文帝が禅譲を受けた時、朝臣は三公以下いずれも爵位を受けた。 華[音欠]の態度や表情がその時の状況に反すると判断されたため、 左遷されて司徒となり、爵位も昇進しなかった。 魏の文帝は長らく不機嫌でその為尚書令の陳羣に意見を求めた。

「わしは天命に応えて禅譲を受けた。全ての諸侯のうち歓喜しない物はなく、 それは声や表情に表れていたのに、相国(華[音欠])と公だけは嬉しそうでなかったが、どうしてだ。」

陳羣は席を外して平伏していった。「臣(わたくし)と相国は、以前漢朝の臣下でありました。 心のうちでは歓喜いたしても、道義感がその表情に表れたのです。 一方では陛下が実際憎まれるに違いないと恐れてはいたのですが。」

帝は大いに喜び、かくて彼(華[音欠])を重んじ特別扱いをした。〔2〕

「魏書」にいう。

華[音欠]は時に75歳であった。

私的感想

かなり久しぶりの更新(´Д`;)ヾ

演義と正史が違う人物のトップクラス、華[音欠]を書いてみました。 羅漢中は孫権の元にいたのに魏に行き、そのまま臣下となったのが気に食わなかったのでしょうか。

演義では伏皇后の髪を引っ張り、曹操の前に突き出したり、 献帝に無理矢理譲位を迫ったりとかなりの悪人っぷりを発揮しています。 正史ではそういった記述は見当たりません。

荀ケ、荀攸の後に尚書令となり、 魏の最初の三公の一人でもある事からやはり優れていた事が伺えると思います。