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陳寿評・魏
武帝紀 第一
曹操
評にいう。
漢末は、天下がたいそう乱れ、豪傑がいっせいに起ちあがった。
武帝(曹操)は策略をめぐらし計画を立て、天下を鞭撻督励し、才能ある者に官職を授け、
各人の持つ機能を利用し、自己の感情をおさえて冷静な計算に従い、昔の悪行を念頭に置かなかった。
最後に天子の果たすべき機能を掌握し、大事業を成し遂げえたのは、ひとえにその明晰な機略がもっとも優れていたためである。
そもそも、並外れた人物、時代を超えた英傑というべきであろう。
文帝紀 第二
曹丕
評にいう。
文帝(曹丕)は文学的素質を具え、筆を下せば文章となった。
広い知識を持ち、記憶力に優れ、多方面にわたる才能を有していた。
もしこの上に広大な度量が加わり、公平な誠意をもってつとめ、道義の存立に努力を傾け、
徳心を充実させる事ができたならば、古代の賢君も、どうして縁遠い存在であったろうか。
明帝紀 第三
曹叡
評にいう。
明帝(曹叡)は沈着剛毅で決断力と識見をもち、心意気を持って行動し、
人民にとって君主としてまことにすぐれた気質を有していた。
(しかし)この時代、人々は疲弊しきり、天下は分裂、崩壊していたのに、
まず先祖のすぐれた事業をととのえ、大業の基礎をかためようとはせず、
にわかに秦の始皇帝や漢の武帝の轍をふんで、宮廷を造営した。
将来への考慮という観点に立てば、重大な失敗であったろう。
三少帝紀 第四
斉王紀(曹芳) 高貴郷公紀(曹髦) 陳留王紀(曹奐)
評にいう。
古代では、天下を公共のものと考え、ただ賢者だけに与えられた。
後世になると世襲になり、嫡子を後継ぎに立てた。
もし嫡子が後を継がない場合には、旁系の親族のうち徳優れた者を選び出すべきであって、
漢の文帝・宣帝がその例にあたる。これこそ不変の法則である。
明帝はそのようにする事が出来ず、私の情愛にとらわれて幼子を慈しみ育て、
(その子に)天子の位を伝えた上に、一人の人物に委託の責任を負わせず、
あくまで一族の者を参与させた結果、曹爽が誅殺され、
斉王が帝位を追われることとなったのである。
高貴郷公は才能優れ若くして完成を見、議論を好み文章を尊重するなど、文帝の風格を持った人物だともいえよう。
しかしながら、軽はずみな正確で憤怒にまかせ、自分から大きな災難(死)に陥ってしまった。
陳留王は慎み深い態度で帝位にあったが、宰相が政治を取り仕切り、
(結局は)過去の法式に従って、おだやかに帝位を譲り渡す事となった。
かくして(晋から)大国を領土として受け取り、晋王朝の賓客として礼遇された。
彼を山陽公(後漢の献帝)と比較すると、一段と寵遇されたといえよう。
后妃伝 第五
卞皇后 甄皇后 郭皇后 毛皇后 郭皇后
評にいう。
魏王朝の后妃の一族は、富貴になったとはいっても、衰退した漢王朝において
(后妃の一族が)根拠もなしに高位高官にのぼり、朝政をきりもりしたような事態はみあたらない。
(魏は)過去を戒めとしてやり方を改めたのであって、その点に関しては立派である。
陳羣らの提議や議論を振り返ってみると、すべての王者の模範とし、後世へ伝える憲章とするだけの価値がある。
董二袁劉伝 第六
董卓 袁紹 袁術 劉表
評にいう。
董卓は心ねじけて残忍で、暴虐非道であった。
記録に残されているかぎり、おそらくはこれほどの人間はいないであろう。
袁術は奢侈多淫で欲望のままにふるまった。
自分の一生を終るまで栄華を保てなかったのは、自業自得である。
袁紹と劉表はともに威厳に満ちた風貌と度量見識があり、当時において評判の高い人物だった。
劉表は漢江の南を支配し、袁紹は黄河の北に勢力をふるった。
しかしどちらも表向きは寛大でありながら内心は猜疑心が強く、謀略を好んで決断力が無く、
有能な人材がいても用いる事が出来ず、よい意見を耳にしながら聞き入れる事が出来ず、嫡子を退けて庶子を後継者に立てて、
(嫡子を立てることを定めた)礼制をかえりみずに(庶子への)愛情を優先した。
後継者の時代になってからつまずき苦しみ、社稷が転覆したのも、不幸な出来事とはいえない。
昔、項羽は、(漢の高祖劉邦を鴻門の会で殺害せよという)范増の計略に背いた為に、その王業を失ってしまった。
袁紹が田豊を殺害したのは、項羽の失策より遥かに酷いものである。
呂布臧洪伝 第七
呂布 臧洪
評にいう。
呂布はほえたける虎のごとき勇猛さを持ちながら、英雄の才略無く、軽佻にして狡猾、
裏切りを繰り返し、眼中にあるのは利益だけだった。
古から今に至るまで、こうした種類の人間で破滅しなかった試しは無い。
昔、後漢の光武帝は[广龍]萌(ほうほう・光武帝に親近されながら、後年反乱を起こした)について人物判断を誤り、
最近では、魏の太祖は張[之貌]についてその本質を見抜くことが出来なかった。
「人の真価を正しく判断できるのが真の知恵である。これは皇帝とて困難な事だ。」(「尚書」皐陶謨(こうようぼ))
というのは、真理である。
陳登と臧洪はともに雄大な気骨と壮絶な節操を持っていたが、
陳登は若くして生命をおとして、功業を成し遂げる事が出来ず、
臧洪は弱体な軍隊によって強敵にたいした為に、烈々たる志を樹立できなかった。
残念な事である
二公孫陶四張伝 第八
公孫[王贊] 陶謙 張楊 公孫度 張燕 張繍 張魯
評にいう。
公孫[王贊]は易京を保守したまま、なすことも無く全滅を待っていた。
公孫度は残虐で節度が無く、公孫淵は父祖の業を受け継ぎながら凶悪さを発揮し、ただ一族を破滅させただけであった。
陶謙は惑乱して憂死し、張楊は臣下に寝首をかかれた。
皆州郡を支配しながら、かえって一平民にも劣る者どもであり、実際論評に値しない。
張燕・張繍・張魯は盗賊の生活を捨てて功臣の中に名を連ねる事となり、
危険滅亡の生き方を離れて、祖先の祭りを保った。
と、すれば、彼らの方が(先の連中より)優れているといえよう。
諸夏侯曹伝 第九
夏侯惇 夏侯淵 曹仁 曹洪 曹休 曹真
評にいう。
夏侯氏と曹氏は代々姻戚関係にあった。
それゆえ、夏侯惇・夏侯淵・曹仁・曹洪・曹休・曹尚・曹真らはいずれも皇室の一族として、
当時にあって高官となり重んじられ、君主を補佐し勲功を樹立し、そろって功労があった。
曹爽は徳が無いのに高位につき、理性を忘れ、驕り高ぶった。
これはまことに「易」が明示し、道家が忌み嫌う事である。
夏侯玄は厳格で度量が大きく、世間ではその名をたたえていたが、
しかし、曹爽とともに朝廷の内外に渡って深く結びついていた。
これほどの立派な地位におりながら、曹爽の誤りを矯正し、
優れた才能の持ち主を招いた話は聞いたことが無い。
これらの点を取り上げて判断すれば、どうして(悲運の最期を)免れる事ができようか。
荀ケ荀攸賈[言羽]伝 第十
荀ケ 荀攸 賈[言羽]
評にいう。
荀ケはすずやかな風貌、道理をわきまえた態度、王佐の風格を備えていた。
しかしながら、時運を認知し、先見の明がありながら、自己の理想を完全に実現する事はできなかった。※
荀攸と賈[言羽]は打つ手に失策なく、事態の変化に通暁していた、と断言してよいであろう。
前漢の張良・陳平に次ぐ人物であろうか。
※裴松之の反論はこちら
袁張涼国田王〔丙β〕管伝 第十一
袁渙 張範 涼茂 国淵 田疇 王脩 〔丙β〕原 管寧
評にいう。
袁渙・張範・〔丙β〕原は、清潔な生き方を実践し、出処進退は道義に基づいていた。
つまり彼らは貢禹・両襲の仲間である。
涼茂・国淵もまた彼らに次ぐ人物である。
張承は名声行為が張範に次いだ。
りっぱな弟だったと言ってよいであろう。
田疇の節義、王脩の忠誠は、世俗を矯正するに充分である。
管寧は温雅高尚、断固として自己の生き方を守り抜いた。
張セン・胡昭は門を閉ざして閑静を保持し、現世の栄利にあくせくしなかった。
だから彼らを付記したのである。
崔毛徐何ケイ鮑司馬伝 第十二
崔[王炎] 毛[王介] 徐奕 何菱 ケイギョウ 鮑 司馬芝
評にいう。
徐奕・何菱・ケイギョウは厳格さを尊重し、その時代の名士となった。
毛[王介]は清廉、私心無く質素を守った。
司馬芝は忠誠にして不正に陥らず、かたいものを吐き出しやわらかいものを飲み込む
(強者を恐れ、弱者をあなどる)ことをしなかったと、大体言えよう。
崔[王炎]は品格最も優れ、鮑は正しさを守って欠点が無かったのに、いずれも死を免れなかった。
残念な事である。
「大雅」は「既に明且つ温」(正しく真っ直ぐでありながら温和な事)を尊んでいるが、
兼備の才能で無い限りは、誰がよく両方を備えられようか。
鍾ヨウ華[音欠]王朗伝 第十三
鍾ヨウ 華[音欠] 王朗
評にいう。
鍾ヨウは道理に通じ、司法の才があり、華[音欠]は純潔で徳性を具えており、
王朗は文才学識が豊かであって、まことにみな一時代の俊傑であった。
魏氏がはじめて帝位についたとき、彼らは最初に三公の位に登った。
立派なことである。
王粛は誠実にして博学、よく父の業を受け継いだ。
程郭董劉蒋劉伝 第十四
程c 郭嘉 董昭 劉曄 蒋済 劉放
評にいう。
程c・郭嘉・董昭・劉曄・蒋済は才能・知略にすぐれた世の奇士である。
清潔で徳行をおさめた点では、荀攸と異なるが、はかりごとをたてた点では、彼らはその仲間である。
劉放は文章により、孫資は真面目さと慎み深さにより、ともに詔令発布をつかさどり、
権力は当時にきこえわたっていたが、それにふさわしい見識を具えていなかった。
そのために彼らの阿諛を非難する声が、つねに彼らの実際の行為以上に激しかった。
劉司馬梁張温賈伝 第十五
劉馥 司馬朗 梁習 張既 温恢 賈逵
評にいう。
漢末より以来、刺史が諸郡を統括し、都の外にあって行政を施いた。
先の時代にただ監督するだけだったのと同じではない。
太祖(曹操)が国家の基礎をつくってから魏の帝業が終わるまでの期間において、
右の人々(この伝の人達)が評判をたてられ、名実ともに具わっていた。
みな仕事の機微に通達し、威厳と恩恵がともにあらわれた。
だからよく万里四方の地を引き締め整え、後世に語られたのである。
任蘇杜鄭倉伝 第十六
任峻 蘇則 杜畿 鄭渾 倉慈
評にいう。
任峻は最初義兵をあげ、それから太祖(曹操)に帰服した。
土地をきりひらき穀物を増産し、倉庫はみちあふれ、功績は最高であった。
蘇則は威光によって動乱を平定した。
政治の立派なうえにきりりとして剛直であり、厳しい態度は称揚するに足るものがある。
杜畿は寛大と厳格がよく調和し、恩恵をもって人民を安んじた。
鄭渾と倉慈は筋道のたった思いやりのある政治を行った。
だいたいみな魏のみ代における名太守である。
杜恕はたびたび当時の政治について進言し、統治の本質について論じた点に、みるべきところがあろう。
張楽于張徐伝 第十七
張遼 楽進 于禁 張[合β] 徐晃
評にいう。
太祖はあのような武勲をうちたてたが、当時のすぐれた将軍というと、五人(この伝の五人)といってよい。
于禁はもっとも剛毅で威厳をもつといわれたが、しかしその結末を全うしなかった。
張[合β]は変化に対して巧みに対処する事をたたえられ、楽進は驍勇果断をもって名声をあらわした。
しかし彼らの行為を考えてみると、評判を裏付けてはいない。
説明の記事に遺漏があって、張遼・徐晃の詳細にわたっているのと違っているのであろう
二李臧文呂許典二[广龍]閻伝 第十八
李典 李通 臧覇 文聘 呂虔 許[ネ者] 典韋 [广龍]悳 [广龍]イク 閻温
評にいう。
李典は儒学の教養を尊重し、道義によって個人の仲違いを忘れた。立派な事である。
李通・臧覇・文聘・呂虔は州郡を鎮め守り、いずれも威厳と恩恵を示した。
許[ネ者]と典韋は〔曹操の〕左右で武勇を発揮した。
まずは漢の樊カイに当たるであろう。
[广龍]徳(悳)は命を投げ出して敵を叱咤し、〔前漢の初め項籍(項羽)に殺された〕周苛の節義をもっていた。
[广龍]イクは我が身を殺す事をおそれず、誠意は隣国を感動させた。
閻温は城に向かって大声で呼びかけ〔春秋時代の〕解陽・〔前漢の〕路中太夫の激烈さと同じである。
任城陳蕭王伝 第十九
任城威王彰伝(曹彰) 陳思王植伝(曹植) 蕭壊王熊伝(曹熊)
評にいう。
任城王は武芸勇猛、指揮官の器量をもっていた。
陳の思王は文才豊富、後世に伝わるだけの価値を有していた。
しかしながら謙譲の徳を持って将来の災いを防ぐ事ができず、最後に(天子と〔曹丕〕の)仲違いを招くこととなった。
『伝』に「楚は間違っているし、済も妥当であるとはいえない」といっているが、
それは彼らのことをいっているのだろうか。※
※曹丕も曹植も、どちらも非難すべき点があることを意味する。
武文世王公伝 第二十
豊愍王昂伝(曹昂) 相殤王鑠伝(曹鑠) ケ哀王沖伝(曹沖) 彭城王拠伝(曹拠) 燕王宇伝(曹宇)
沛穆王林伝(曹林) 中山恭王袞伝(曹袞) 済陽懐王ゲン伝(曹ゲン) 陳留恭王峻伝(曹峻)
范陽閔王矩伝(曹矩) 趙王幹伝(曹幹) 臨邑殤公子上伝(曹上) 楚王彪伝(曹彪) 剛殤公子勤伝(曹勤)
穀城殤公子乗伝(曹乗) 〔眉β〕載公子整伝(曹整) 霊殤公子京伝(曹京) 樊安公均伝(曹均) 広宗殤公子棘伝(曹棘)
東平霊王徽伝(曹徽) 楽陵王茂伝(曹茂) 賛哀王協伝(曹協) 北海悼王ズイ伝(曹ズイ) 東部陽懐王鑒伝(曹鑒)
東海定王霖伝(曹霖) 元城哀王礼伝(曹礼) 邯鄲懐王[巛邑]伝(曹[巛邑]) 清河悼王貢伝(曹貢) 広平哀王儼伝(曹儼)
評にいう。
魏氏の王公はいたずらに領土支配の名目を与えられているだけで、国家としての実質は無かった。
また、(種々の行動を)禁止され抑えられ、(朝廷から)せぎり隔てられ、牢獄にいるのと同じであった。
地位も爵号も安定する事無く、大国、小国と年々改められた。
骨肉の恩にはもとり、「常棣」の義は廃された。
法律の与える弊害は、まったくここまでひどかったのだ。
王衛二劉傅伝 第二十一
王粲 衛覬 劉ヨク 劉劭 傅カ
評にいう。
昔、文帝と陳王(曹植)は公子の尊さをもって、広く文学を愛好し、
同好の士は集まり、文才ある人物が並んで出現した。
そして王粲は特に側近の官におり、魏一代の制度を作った。
しかしながら虚心にして大きな特性を持っていた徐幹の純粋さには及ばない。
衛覬もまた古い慣例を多く知っていて、当時の朝廷の儀式を助けた。
劉劭は学問に関する書籍をあまねく読み、文飾と質朴さが充分に備わっていた。
劉ヨクは清潔な見識を持って著名であり、傅カは才能と達識によって高官になったと言う。※
※臣裴松之が考えるに、傅カは見識・器量ともに優れた名士であり、誠に当時あって一流の人物だった。
ところがこの「評」ではたんに「才能・達識によって高官となった。」というだけである。
標語の点で拙劣なうえに、傅カの美点を表現するに不十分である。
桓二陳徐衛盧伝 第二十二
桓階 陳羣 陳矯 徐宣 衛臻 盧毓
評にいう。
桓階は成功・失敗の事例をわきまえ、才能は当代に広く行き渡った。
陳羣は名誉と道義によって行動し、高潔な人柄で高い声望をもっていた。
陳泰は広く世を救いきわめて簡潔、まことによく父業を受け継いだ。
魏の時代は宮中の機関(尚書省)で政治を統べ、内(宮廷)を重んじ外(政府)を軽んじた。
それゆえ八座の尚書がすなわち古代の六喞(政府の六省の大臣)の任に当った。
陳矯・徐宣・衛臻・盧毓は長い間その官位にいた。
陳矯と徐宣は剛断にしてコウ骨、衛臻・盧毓は〔帝に対する)諌戒と清潔な事務処理によって、
皆その職を汚さなかったという。
和常楊杜趙裴伝 第二十三
和洽 常林 楊俊 杜襲 張儼 裴潜
評にいう。
和洽は清廉と和合を旨として仕事に当たった。
常林は平素の行動が純粋・堅固であった。
楊俊は人間関係を大切にして道義を行った。
杜襲は温和・純粋にして人を統率する道を心得ていた。
張儼は剛毅・果断で度量が大きかった。
裴潜は平常心を持ち国の柱石であった。
皆一世に名だたる立派な人物である。
常林が三公に執着せず、大夫の位で老齢を理由に退官したのは、見事である。
韓崔高孫王伝 第二十四
韓曁 崔林 高柔 孫礼 王観
評にいう。
韓曁は家にあっては閑静な生活によって教化を行い、
外に勤めては職務に責任を持つ事によって称賛を博した。
崔林は簡潔・素朴にして能力者を見分け、
高柔は法政に明るく、孫礼は剛毅・果敢にして気性激しく、
王観は清廉・剛直、誠実・潔白であり、皆よく宰相の位に登った。
韓曁は年八十を過ぎてから起用されてくらいにつき、
高柔は二十年間官位を保ち元老として在籍のまま亡くなったが、
徐[之貌]・常林に比較して、この点が傷である。
辛[田比]楊阜高堂隆伝 第二十五
辛[田比] 楊阜 高堂隆
評にいう。
辛[田比]・楊阜は剛直公正で利害を顧みず直諫し、汲黯(漢代、剛直で聞こえた臣)の高貴な風格に迫るものがある。
高堂隆は学問に明るく、君主を正す事を志し、災異によりつつ鑑戒を述べ、まごころから発するものであった。
忠義な事である。
正朔(暦)をぜひとも改訂させようとし、魏の手本を虞(舜の国)に求めた点になると、
自分の理解を超えた事を意図したということであろうか。
満田牽郭伝 第二十六
満寵 田豫 牽招 郭淮
評にいう。
満寵は意志を貫く事強固で、勇気がある上に策謀があった。
田豫は身を処すること清廉で、計略は明白にしてよく練られていた。
牽招は道義を守ること壮烈で、威光と功績は顕著だった。
郭淮は方略に精通しており、秦州・雍州において名声を流した。
しかしながら、田豫が小州の刺史で官位が止まり、牽招が郡の太守で終わったのは、
その働きを十分役立てられなかったといえよう。
徐胡二王伝 第二十七
徐バク 胡質 王昶 王基
評にいう。
徐バクは清廉にして達士であり、胡質は平素の行いが卓正・純粋であり、
王昶は君を補導し、民を治め、識見・度量を有しており、
王基は学問・品行が堅固・潔白であった。
いずれも地方の長官を司り、称誉を残し、功績を著わした。
国家の良臣、当代の優れた人物といってよいであろう。
王母丘諸葛ケ鍾伝 第二十八
王リョウ 母丘倹 諸葛誕 ケ艾 鍾会
評にいう。
王リョウは高い風格と志節を有し、母丘倹はずば抜けた才能と識見を有し、
諸葛誕は剛毅にして威厳があり、鍾会は熟練した策略家であり、
いずれも高い名声を持って、栄誉ある地位を勝ち取った。
ところが皆大きな野心を抱き、災禍に対して思いをめぐらす事なく、
機をはじくように(向こう見ずに)事変を起こした結果、
一族(処刑されて)大地に土まみれとなってしまった。
判断力が狂っていたからではなかろうか。
ケ艾は強い意志力をもって功績をうちたてた。
しかし禍を防ぐ配慮に乏しく、たちまちのうちに災厄が訪れる事になった。
はるかに諸葛恪の失敗を予知しながら、目前にある自分の危険を察知できなかったのであろうか。
これはつまり古えの人のいう目論というものであろう。
方技伝 第二十九
華佗 杜キ 朱建平 周宣 管輅
評にいう。
華佗の診療、杜キの音楽、朱建平の人相見、周宣の夢占い、管輅の卜筮、
これらは誠に奥深く隔絶した巧みであり、非凡な優れた技術であった。
昔、司馬遷が「史記」に扁(微妙に漢字違うかも)鵲、倉公・日者の伝を書いたのは、
不思議な伝えをも広く包括し、常識を超えた物事の存在を人々に知らせるためであった。
それゆえ、私も彼らの伝記をここに録したのである。
烏丸鮮卑東夷伝 第三十
烏丸 鮮卑 東夷
評にいう。
「史記」や「漢書」は朝鮮や両越のことを記し、後漢王朝の史書には西羌の事が記録されている。
魏の時代には匈奴が段々と劣勢に向かい、代わって烏丸・鮮卑、
さらには東夷までが現れて、使者や通訳が(これらの地域に)往来するようになった。
歴史の記述は、それぞれの時代に起こった事を記録してゆくものであって、
扱わねばならぬ対象が常に定まっているというものではない。
(だから両越や西羌の伝を省いて、烏丸・鮮卑・東夷の伝をたてたのである。)