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張楽于張徐伝 第十七
楽進
数々の戦果を挙げる
字は文謙。
身体つきは小柄だったが、肝っ玉の激しさによって曹操に付き従い、帳下の吏(記録係)となった。 曹操は出身の郡に帰して、兵を募集させたが、千余人を手に入れ帰って軍の仮司馬・陥陣都尉となった。 濮陽における呂布攻撃、雍丘における張超攻撃、苦における橋ズイ攻撃に参加し、 全て一番乗りとして戦功を立て、広昌亭侯にとりたてられた。
安衆における張繍征討、下ヒにおける呂布包囲に参加し、別将を打ち破った。 スイ固を射犬に攻撃し、劉備を沛に攻め、全てそれらを打ち破り、討寇校尉に任命された。 黄河を渡って、獲嘉を攻撃し、帰還すると、官渡における袁紹攻撃に参加し、 力の限り戦い、袁紹の将軍淳于瓊を斬った。
レイ陽における袁譚・袁尚攻撃に参加し、その大将厳敬を斬り、行遊撃将軍となった。 別軍として黄巾の賊を攻撃し、それを打ち破り楽安郡を平定した。 ギョウの包囲に参加し、ギョウが平定すると、南皮における袁譚攻撃に参加し、 一番乗りとして袁譚の東門に突入した。 袁譚が敗れると、別軍として雍奴を攻撃し、これを打ち破った。
206年曹操は漢帝に上奏文をたてまつり、楽進及び于禁・張遼をたたえて述べた。 「武力が優れている上に、計略は行き届き、忠義にして純一なる性質をもち、堅い操を保持しております。 戦闘攻撃に臨めば、常に指揮を取り、力を振るって、堅陣を突き破り、 堅固であっても陥落させないことはなく、自身枹と太鼓をとり、手はうむ事を知りません。 また別軍として征討に派遣されると、軍隊を統率し、兵士達をかわいがっては和を基本とし、 命令をかしこみ違反することなく、敵にぶつかって決断を下す場合も失敗はございません。 功績を調べ働きを記し、それぞれ顕彰され恩寵を下さるべきと存じます。」 この結果楽進は折衝将軍に取り立てられた。
楽進は別軍として高幹を征討し、上党に入り、迂回してその背後に出た。 高幹らは引き返して壺関を守ったが、連戦してやっと敵兵の首を斬った。 高幹は固守して降らなかったが、曹操は自身彼を征伐し、やっとおとした。 曹操は管承を征討し、淳于に陣を置き、楽進と李典を派遣して彼を攻撃させた。 管承は敗走し、海中の島に逃げ込んで、海岸地帯は平定された。 荊州平定後は襄陽に駐屯した。 関羽らを攻撃して彼らを敗走させた。
南郡の蛮民達が楽進の下に来て降伏した。 また劉備のところを攻めて全て散々に打ち破った。 に孫権征討に参加し、楽進は節を与えられた。 曹操は帰還すると張遼・李典と共に合肥に駐屯させた。
五百戸を加増され、前と合計して千二百戸となった。
楽進は右将軍に昇進した。218年、逝去した。
私的感想
よくまぁ一番乗りを果たす凄い武将です。 どの戦いも敵陣に突っ込んでは活躍したのでしょうね。 しかし、残念なのは記述が少ない事です。 張遼の有名な孫権との戦いでは城の守備の方に回ったようです。