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后妃伝 第五
卞夫人
卞皇后 甄皇后 郭皇后 毛皇后 郭皇后
文帝の母の生涯
文帝(曹丕)の母。
もとは歌妓出会ったが二十歳のとき、[言焦]にいた太祖(曹操)は彼女を家に入れて側室とした。 後年、太祖のお供をして洛陽にきた。
董卓が動乱を起こした際、太祖は目立たぬ身なりをして東方へ出奔して難を避けた。 袁術が、太祖が死んだという知らせをしたとき、 太祖の側近くに仕え洛陽まで来た者達が皆国へ帰ろうとした所、 卞皇后がこれを引き止めて、
「曹君の吉凶はまだわかりません。今日国へ帰って、明日もし生存しておいでになったなら、 あわせる顔が無いではありませんか。 万一本当に災禍が起こったなら、 一緒に死ぬのに何の差しさわりがありますか。」と言った。
かくして卞皇后の言葉に従ったのだった。太祖は聞いてその態度をめでた。
建安の初年、丁夫人は廃され(※)、かくて卞后が後妻に立てられた。
太祖は、子供たちのうち母のいない者全てを、卞后に養育させた。
文帝が太子になったとき、側近の長御(女官長)が后にお祝いを述べ、 「将軍(五官中朗将曹丕)は太子を拝命され、天下の者そろって歓喜に浸っております。 皇后様には倉の中のものをありったけ出して、ご褒美を賜りますように。」というと、
卞后は「王(曹操)は曹丕が年長であるが故に、後継者になされたのです。 私はただ、教育がなってないという責任を逃れられれば幸せと考えるだけのことです。 とうしてたいそうな贈り物をする必要があるのですか。」と言った。
長御は戻ると、逐一太祖に報告した。 太祖は喜んで、「腹を立てたときにも顔色を変えず、喜んだときにも節度を忘れない。 これこそ最も難しいことなのだ。」と言った。
219年、王后にとりたてられた。
策命(辞令の文書)には、「夫人卞氏は、諸子を愛育して、母道の模範となるべき徳を具えている。 今位を王后に引き上げる。(その儀式にあたって)太子諸侯は陪席し、大臣達は祝賀を述べよ。 国内の死罪にあたる者の罪を一級軽減してやるように。」
220年、太祖が崩御し、文帝が帝位につくと、后に王太后の尊号を奉った。
帝位につくに及んで、皇太后の尊号を奉り、永寿宮とよんだ。
明帝が即位すると、太后に太皇太后の尊号を奉った。 文帝が太后の亡き両親に爵位を追贈しようとしたところ、 尚書の陳羣が上奏して、
「陛下は優れた御徳によって、よき運勢にめぐり会われ、 天命をお受けになり、帝業をうち立て制度を変革なさいまして、 永くご子孫方の模範となられるべき方でございます。 古典の文章を調べてみますに、女性に領地を分け与え爵位を授ける制度はございません。 礼法におきましては、妻は夫の爵位に従属する事になっております。 秦王朝は古の法則に背き、漢王朝はそれを踏襲したものでありまして、 古代の王者達の典則ではございません。」と言うと、
文帝は言った、 「この意見は正しい。従って先の命令を実施してはならぬ。 (この原則を)記した詔勅を尚書の蔵(憤行を記した記録類を収蔵する倉)におさめて、 永く後の時代の典範とするように。」
230年春にいたって、明帝は(文帝の典範に違反して)太后の祖父亡き卞広に開陽恭侯の諡を、 太后父卞遠に敬侯の諡を、祖母の周氏に陽都君の諡を、さらに(母に)敬侯夫人の諡を追贈し、 全員に(位を示す)印綬を贈った。
その年五月、卞后は崩御した。
七月、高陵(武帝の墓陵)に合葬した。
裴松之の注
※ 「魏略」にいう。
太祖には初めて丁夫人があり、また劉夫人が子修(曹昂)と清河長公主とを生んでいた。 劉夫人が早く亡くなったので、丁夫人が子修を養育した。
子修が穣で亡くなると、丁夫人はいつも、 「私の子を殺しながら、平気な顔をしていらっしゃると。」と言っては、節度もなく号泣した。 太祖はこれに腹を立て、里に帰して、彼女の気持ちが折れるのを望んだ。
後に太祖が彼女を訪れると、丁夫人は丁度機(はた)を織っていた。 外回りの召使いが、「公がお見えです。」と取り次いだが、夫人は元通り機の前に坐っていた。
太祖は部屋に入り、彼女の背をさすって、「こっちを向きなさい。一緒に車で帰ろう。」といったが、 丁夫人は振り向きもせず、答えもしなかった。 太祖は後ずさりして、戸の外に立つと、もう一度言った。 「まだ許してくれないのかね。」答えは無かった。 太祖は言った、「じゃ、本当にお別れだ。」
かくして彼女と離縁したのだった。 丁夫人の里では彼女を再婚させたいと望んでいたが、思い切って出来なかった。
最初丁夫人は正妻であった上に、子修もいたため、卞后母子に対してまともな扱いをしなかった。
卞后は後妻になると、昔の仕打ちを怨みに思わず、 太祖が出かけた留守を見計らい、 四季折々に人をやって贈り物を持って行かせたり、 またこっそり丁夫人を招待したりもした。
このときには夫人を上座につかせ、自分は下座に坐って、送り迎えするのも、昔のままであった。 丁夫人は感謝して、「離婚され追われた者に対して、あなたは何故いつもこんなにしてくれるのですか。」 と言っていた。
後年、丁夫人が亡くなった時、卞后が太祖にかりもがりをして埋葬するよう頼み込むと、太祖はそれを許した。 そこで許城の南に埋葬したのだった。
後年、太祖が病に苦しんだとき、自ら再起できない事を案じて、歎息して、
「わしはずっと思ったとおりにしてきて、心に背いた事は一度も無かった。 ただもし死人に霊魂があって、子修が『私のお母さんは何処におりますか』と聞いたなら、 わしは一体何と答えたらいいものだろうか。」と言った。
「魏書」にいう。
卞后は倹約家で、華美を好まず、刺繍のついた衣服や珠玉は所有せず、 器物はすべて黒い漆塗りを用いた。太祖は立派な耳飾をいく組みか手に入れたときにはいつも、 后に自分でその一組を選び取らせたが、后はいつも中級の品を選んだ。
太祖がその訳を尋ねると、「上等の品物を選ぶと欲が深いととられますし、 下級の品物を選ぶと見せ掛けと取られますゆえ、中級の品を選んだのです。」と答えた。
私的感想
女性の列伝第一号です。
彼女の列伝などは彼女そのものよりも曹操の意外な一面ばかりが見れそうですね。 卞夫人には見習うべき所がたくさんあり、また似せる事も難しいのでは無いでしょうか。
人は有頂天になりやすく、足元を見るのを忘れる時があります。 初心を思い返させてくれるとも言うべきでしょうか。・・・大げさかも知れませんが(笑) だけど、少なくとも僕には真似できないものであろうとは思われます。
よくある、歴史に「もしも」の部分。そしてこの列伝にも登場する曹昂。
彼こそは曹家の長男です。 「もし」彼が宛で戦死せず、そのまま生きていたら曹丕や曹植、 そして曹沖と太子の座を争う事になるのでしょうか? さらに丁夫人と離縁する事もなく、列伝にあるとおり、卞夫人親子は冷たい扱いを受けたのでしょうか・・・?
全てが憶測で「こうなったらどうだろう?」というものにすぎませんし、事実は僕達の誰もが分かりません。 しかし、全ての歴史の結果が今ここにいる僕達なのでしょう。